結城らんな

タレンタイム〜優しい歌の結城らんなのレビュー・感想・評価

タレンタイム〜優しい歌(2009年製作の映画)
5.0
 愛する人が幸福であるのなら自分も幸福、不幸であるのなら自分も不幸……と言えるほどに生涯を共に遂げたい、と思える人と出会えるのは幸せと不幸せの両方を包含している。
 そんな一身の愛を捧げられる人と出会えること自体はとても幸せなことなのだが、本人らの意思とは別に、外部から、しかも生活文化などの障害により発生する壁は乗り越えられない場合もあるという困難が現実にはある。

 父親と対等な女系家族、様々な人種及び異宗教間での恋愛、同性愛では?と思われてしまうほどの男性同士での近い馴れ合い、華人のメイド、更には華人のムスリム……などという、マレーシアという国に於いてタブーとも思えるような人との関わり方、或いはタブーでなくとも実際にはあり得るのか?と疑問を抱くような姿の描写が全編に渡って、多数散りばめられている。
 『タレンタイム』は、ライバルも人種も宗教も言葉も貧富などという壁をも越えながら、互いの心を通わせつつ、生と死も隣り合わせに描く。
この物語は、マレーシアの中ではどれもが誰にでも起こり得るということを、同一に語っているのである。

 登場人物の心情の多くは劇中で流れたり歌われる歌の詞、そして詠まれる詩で表現されており、それらはインド映画の手法に限りなく近い。このような演出そのものですらボーダレスに表現されているのである。
 台詞で語られないことがかなり多いために、時を経て、マレーシアに関する知識がひとつでもふたつでも増えた状態で鑑賞をすると、そのたびに発見がある作品なのだ。

 この作品の中で描かれていることは、現実のマレーシアの姿に対し、こうなれば良い、そうなれば皆が幸せに向かって一歩踏み出すことが出来るのでは、という、未来に対しての希望や問いかけではなかろうか。
 いや、マレーシアだけではない。文化や習慣などの違いはあれど、世界中の人々に対して望むことなのである。
 つまり、クライマックスにて行われる、タイトルにもなっている『タレンタイム』という芸能コンテストのステージ上で繰り広げられていることそのものに、これらの意味のすべてが集約されている。
 ヤスミン監督が遺した最期のメッセージは、世の人々が平等で手を取り合えますように、という、愛に溢れた優しい願いが込められているとしか思えず、鑑賞後には胸いっぱいになってしまうのである。

 劇中で多用されるドビュッシーの『月の光』は『ベルガマスク組曲』の中の1曲。滑稽に振る舞う道化師の仮面の下には哀しみが満ちている。
 そのような意味も含まれているらしい上に、ベルガマスク本来の意味である即興演劇は、女性が演劇をすることがあり得なかった時代に女優を起用して演じられていたそうだ。
 劇伴ですらこんな深読みをしたくなる演出なのである。

 そしてマレーシア国歌の元となっている歌は『Terang Boelan(トラン・ブーラン、月明かり)』。もちろんマレーシアの国旗も月である。
 月は照らされて輝く存在。太陽のような存在の人がいてこそ、誰しも輝くことが出来る。そのやわらかな月の光に照らされて、さらに人は魅力が引き出されるのである。
 太陽が出ている昼に月は見えるが、月の出ている夜に太陽は見えない。姿が見えない時ですら、人は誰かしらに影響を受け、そして光り輝くのである。
 ちなみに『ラブン』でも月や『月の光』が重要な箇所で使われる。この曲に乗せて庭先に多民族の人々が次々と集まり、そして誰もが満面の笑みで仲良く一緒にゲームを興じる。
 月というマレーシアを表すものの元で、誰もが共に笑顔で幸せに過ごせるように、という祈りのようなシーンなのである。

 ヤスミン・アフマド監督が込めた願いが世界中に伝わる日が訪れるのはいつになるのであろうか。