タンポポは食べられない
伊丹十三監督の第二作。ラーメン・ウエスタンと銘打たれて、どういうことだ??と思いましたが、ちゃんとラーメン・ウエスタンでした(?)。
ごろつきがたむろするだけの食堂で、不味いラーメンしかつくれないタンポポー宮本信子。それをみかねたトラック運転手のゴローは、行列のできるお店にするため彼女と特訓を重ねる。重たい寸胴を軽やかに運べるように身体づくりをしたり、提供を3分以内にするべく反復運動をする。他のラーメン屋の偵察にも行ってみる。そして麺とスープを改良するべく、仲間を集める。この物語の展開は、敵対勢力と決闘を行う西部劇に沿った形だと思う。
しかし本作のストーリーラインはそれだけではない。本筋とは全く関係ない食にまつわる小話がラフに挿入され、私たちを笑いに誘う。鞄持ちが一番食通であったり、マナー講師の教えるマナーが全く形骸化して無意味な様などは笑える。そして役所広司演じる白服の男のパートについても。
最初の映画館のシーンで白服の男と連れの情婦が、テーブルを持ってきて料理を並べる様は面白いし、さらに1カットでカメラは動くわ、アクションは巧みだわで驚愕する。そしてこの白服の男と情婦のドラマで明瞭になるのは、食べ物と官能さの密接な関わりである。
白服の男はホテルで豪華な料理を食べる。と同時に裸体の情婦も「食べる」。この二つの「食べること」の絡まりによる官能さは本作をぜひみていただきたいが、どちらも私たちの生に密接に関わり、かつ美味しさやエロスの追求という点で文化を発展させているのだから軌を一にするのは必然とも思ってしまう。
だが、ここで疑問に思うのはなぜラーメン作りをするタンポポはゴローに食べられないのか、という点である。
本作の主題が食と官能さの絡まりであるならば、メイン・ストーリーで展開されてもおかしくないように思う。むしろ彼らの関係やドラマは準備されているのに、意図的に官能さへの発展が否定されているようにみえる。それは世俗的でエロくないラーメンが原因なのだろうか。それともタンポポ自身?確かに主観的に言えば、タンポポー宮本信子は、情婦ー黒田福美やカキの少女ー洞口依子より外見的魅力があるとは言い難い。しかしメイクや着飾ることで魅力を高める描写があるから、彼女が原因ではないように思える。
では何か。本稿はタンポポが食べられない原因をゴローに見出していきたい。
彼はタンポポに弟子入りを懇願される頼れる男で、西部劇のガンマンよろしく男らしい人物であろう。しかし細部をみれば、その評価は一面的にみえるし、むしろ男らしさは抑制されている。そしてまず取り上げたいのは雨のシーンである。
以下、ネタバレを含みます。
本作では雨のシーンが度々登場する。はじめにゴローとタンポポが出会う日も雨が降っているし、白服の男が何者かに銃で撃たれて死ぬのも雨の日である。そしてゴローとタンポポが食事のデートをした帰り道でも雨が降る。彼らはなかなかタクシーを捕まえることができず、ずぶ濡れになりながら、タンポポの家に行くことになる。
ゴローはタンポポとの食事の最中に妻と別れた胸中を語る。彼女はそれを聞いて、彼の手を握る。この様から二人の間には親密さが醸し出されていて、恋愛関係に発展してもおかしくないように思う。
だがずぶ濡れになった彼らが家に着こうともそれ以上の進展はなくなる。タンポポは身体が冷えるからと、客で男だからと、ゴローを先にお風呂に入らせる。タンポポが侵入することもなければ、ゴローが何かアクションをすることもない。彼がすることと言えば、風呂場に干されている彼女の下着を見つめることだけだ。さらに彼は風呂に入っているときも、カウボーイハットを被ったままだ。その様に私たちは笑うしかできないし、彼の男らしさとは何だか見せかけで滑稽にも思えてくる。なぜなら白服の男が、ずぶ濡れで裸体が透けているカキの少女にすぐさま発情し、キスをするのとは全く対極の姿であるからだ。
思えば彼は男らしさを発揮しているようで、挫折している。はじめの出会いのシーンで、ゴローがタンポポの食堂に溜まるゴロツキと決闘するもボコボコにされる。それは人数のせいかと後に幼馴染みとタイマンで闘うが両者引き分け。喧嘩が強いわけでもない。肝心のラーメンにしても彼が極上の麺やスープが作れるわけでもなく、別の男たちがタンポポに伝授する。彼は彼らと出会う媒介人として力を発揮するが、それは果たして男らしさを十分に発揮していると言えるのだろうか…?他店のラーメンについてああだこうだと言って、着丼までの謎の反復訓練やチャリンコに乗って体力作りをするしか伝授できない彼は、男らしいようで男らしくない。
そんなゴローの本性をタンポポはずぶ濡れになったあの日に知ってしまったのだろう。彼女が気遣ってパンツを新品にしようとする時、目撃してしまうのは小汚い白ブリーフだ。彼は水も滴るいい男ではない。むしろ濡れて滲み出てくるのはダシではなく小汚いブリーフである。それは灰汁とも言える代物で、だから彼女は彼を食べることなどできないのである。
以上、タンポポが食べられない原因をゴローに見出した。ゴローは西部劇のガンマンのようで、実のところ男らしさは十分に発揮されていない。ただそれは彼が弱いからではなく、もっと深淵な何かである。
雨のシーンはもうひとつある。それは食堂の内装を変えるために取り壊しが行われる時である。このシーンは何気ない。でも大きな転換点のように思う。それはゴローが「幸せな生活≒日々」を享受できなくなった始まりにも思えるからである。
ゴローはタンポポのためを思って、ラーメン作りに精を出す。一緒に他店のラーメンを食べに行ったり、仲間集めに苦心する。ラーメンはどんどん上手くなる。それは彼にとって喜びであり、幸せな日々であろう。しかし仲間はタンポポにメイクを施し、綺麗な衣装を身につけもさせる。動揺してしまうほど彼女が綺麗になったのは間違いない。でもそれはラーメンの上手さとは関係ないし、彼の思う彼女の美しさともきっと違うだろう。
店は取り壊されて、刷新される。外観は西洋風で洒落ていて、内装もキッチンが見渡せ、調理器具が整えられた綺麗なものになっている。美味しいラーメンをタンポポはつくれるようになって、店には行列ができた。みんなも喜んでいるのだから、大成功である。
しかし新しくなった店をみて私は思う。綺麗だけど、この店の様はラーメン店ではないし台無しだ、と。あのボロボロの食堂で、タンポポが見映えも気にできないほど無心に食事をつくっている姿に美しさがあったはずである。そしてゴローはその姿に惹かれたのだ、と。
ゴローの思い描く幸せとは大きくかけ離れてしまった。しかしタンポポも皆も幸せそうにしている。だからどうすればいいか分からず、「幸せ」に身を置くこともできない。それが、彼がタンポポを食べることができない別の要因にも思えるし、ラストで彼女の元を去った理由だろう。
タンポポが食べられなかった原因はもしかしたら別にあるのかもしれない。そもそも日常的に植物のタンポポは食べられないという当たり前からかもしれないし、伊丹十三のパートナーだったから官能的な描写を避けたのかもしれない。ただ本作のゴローの人物像は今みると、短絡的な男らしさに回収できない男性像のように思えて興味深い。
この男性像は伊丹十三の思想の現れなのか。それを断定するには、私は伊丹十三のことをまだ何も知らない。