もるもる学園

冬の子供のもるもる学園のネタバレレビュー・内容・結末

冬の子供(1988年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

講義メモ。

商業映画の枠内で考えている。
自伝的要素が強い。第二作目。
ロックが主題ではない。ジャンル映画のお約束ごとが削ぎ落とされる。キャラクターに寄り添う。感情の映画。
プロデューサー、パウロ・ブランコ

輝いていた若手の俳優を採用。
妊娠しているガールフレンドを捨てる最低な行為。
ジェラール・ブラン。シャブロルの処女作と二作目に出演。シャブロルを父親として扱う? ヌーヴェルヴァーグを受け継いでいいのかという葛藤。

2011年に本作のシナリオが出版。
→アサイヤスが読み直した。「あまりに恥ずかしい」半分書き直す。作者としては若い頃作った作品をつまらないと言うが、それに乗じて批判するのは間違い。

シナリオ序文抜粋。
私の自画像のような作品であり、不安定な時期を反映している。虚構されたロックの知性学から文学的な作品を撮り始める。ポリフォニー。さまざまなものが同時に存在している。ディスオーダーに潜んでいたものを見出した。シナリオを読み直すと成熟ではない。私の映画を観て笑って構わない。私のアイロニーとはパリジャン的な皮肉である。笑いである。だが、シナリオにおいて未完成だったものは現場で完成される。脚本と冬の子供は別である。シナリオの執筆は苦難を極めていた。周囲とは違い、確信を持っていた。80年代に私が感じたことのスナップショット。違和感。距離。反発。
自分の連続性の中で読んでほしい。



公開当時インタビュー抜粋
本作は制作に困難を極めた。ディスオーダーが犯罪映画、ジャンル映画だったため、本作の自伝的な青春群像を撮ることが困難だった。予算的な困難。
3週間前にプロデューサーを変える。
中止するか延期するか。この物語は自伝的である。だからこそ、すぐに撮影しなければいけない。様々なやりかねないものを、たぶんに含んでいる。映画作りのリスクは好ましいものだが、あまりにもリスクが大きい。女優が妊娠した→保険会社が保証していくれない。スケジュールが組まれていたにもかかわらず、いろいろあったので、撮影監督が途中で降りる。2人目が引き受ける。
プロデューサーのパウロ・ブランコが引き受けてくれたのはテシネのおかげ。



ディスオーダーの類似性と差異。
類似点はディスオーダーは電話で終わる。本作は電話で始まる。意図的だった。最初で行ったことの続きを作りたかった…
ディスオーダーは無意識的、本作は意識的。なくなったものロック、アクション。青春、思春期を主題。青春の終わり。無秩序。終わらなければならない。本作は青春の終わりから始まる。「子供が産まれる」
思春期の終わり。ステファンも変化。ナタリアも変化。女性も振り回されるし、支えを求める。居場所を求める。もう一つのカップルは最初から最後まで変わらない。普遍である。本作は時の流れに変化した人たちも、本性を突きとめた人たちも幸福にはならない。変わった人たちは少なくとも未来があるが、変わらなかった人たちは終わり。息子の名前はステファン。観客はステファンとナタリアの愛し合っていた不在だった時間を思い出す美しいラストシーン。
見事な構成。

差異。
感情に寄り添った映画。すべての映画は固有の形式を持つ。

父親になれない男と本性と運命的な悲劇。
浮気で結びつく。同時に二つの物語が進行するという形式。
二つのアイディアが組み合わさっている。

流麗なカメラワークは感情を盛り上げる手段ではない。ある種の抑制。

観客自身が考える。掴む。そんな「考える素材」を与えるのが映画監督。ブレッソン的な考えである。常にローカルとグローバルなど、激しさと抑制。対立する二項目を扱う。亀裂を見せるのが、アサイヤスの映画の作家性。


「撮影において、全てに恐れを抱かなければならない。だから、アクロバティックなことに挑戦する」

観客の眼差しの中で、作られる映画である