ジョルジュ・サドゥール著 丸尾定訳『世界映画史』(みすず書房)はとても通読できず時々つまみ読みしている。先日ジャン・グレミヨンを観ていたく感動したのでグレミヨンのところを読んだら『この空は君のもの』(本書では『大空はあなたのもの』)を「ナチス占領下のフランス映画の最良作」とほめていた。
群衆がことごとくエモーショナルで泣いた。俯瞰から地上へ降りてくる。個々人のショットはあくまで抑制的で盛り上がりをそこに置かない。そして号泣しつつも考えてしまった。冒頭からラストまで、随所に配置された孤児院の子どもたち。あの黒い一群は何なのか。
あの孤児たちはゴーティエ家の子どもたちとの対比ではなくて暗喩なのか。家族を単位としない意思表示の。もしくはナチス占領下での先行きの暗喩。
一人の人間がヒコーキに衝き動かされること、ヒコーキの魅力を共有する夫が妻のその衝動を心の底から応援することが、家族としての責務を超える。ピアノを売りに出される娘にとって残酷な仕打ちのようでいて、そうではない。だからピアノの先生はゴーティエ夫妻の行動を否定しない。誰もが個人としての意思を貫く権利がある。家族の責務を放棄しているととられようと。意思を貫きたければ、それを獲得しようと動く必要がある。家族に守られている子どもであっても。娘は親の目を盗んでピアノの先生のところへ行き、先生は無償で練習をさせた。家族を養うために諦めることを選ばなかったテレーズ・ゴーティエとそれを支えたピエールの姿があってこそ、娘は自分の意思を諦めないだろう。人の意思は独立していて、家族すらもそれを縛れない。最後まで存在理由を明らかにされない孤児の一群に、勝手にその暗喩をみた。
だとしても、嫉妬も何もなくそれを心の底から支えたいと思ってくれる人がいること、それは人の一生において最上級に幸せなことなのではないか。ジャン・グレミヨンの『この空は君のもの』(この邦題がまた最上級に美しい)において、シャルル・ヴァネル演ずるピエール・ゴーティエに与えられた役回りは素晴らしかった。