『東京物語』『Tokyo Story』(1953年)
- 東京物語 - テーマとしての無常 -
(死の)待機の時間、音、シーン内の動きの連続
死者は永遠に切り返せないということ。
有用な時の流れではない。それはなにか? 表象は簡単だ。映画はすぐに死者(死体)を映すことができる。セットと小道具と台詞/俳優だけで。それが恐い。しかし、その表象はどちらにせよ有用へ向けたものでしかない。無用であること。例えば映画ではないが、詩という芸術は「最底辺の役にもたたぬものの重要な側面を持つのだ」(吉増剛造)というような。
無常とはなにか? 単にひとつの生と死があったのではない。記憶は過去ではない。生まれた日と死んだ日があるのではない。歴史に記されない無名の領域があり、有用な意識と知覚からは忘れられても、なお、ある-こと。それを意義あることとする瞬間に、それは有用に絡めとられる。だから言葉にしないことで、それはかろうじて、ある。
「 この世界は自分のものかかれらのものか
それともだれのものでもないのか
はじめにに見えるものが現われ、
つぎにふれうるものがこうして現われた 」
(エズラ・パウンド『ピサ詩篇/第八十一篇』)
鉄と煙と煙突で構築されたノイズのなかで、それを見ることはできないのか?
誰かが見た-誰かが憶えているわけではない、船があり、アーチがあり、桟橋があり、路地があり、海と山と、だから大気がある。
「 ああ、きれいな夜明けだった...今日も暑うなるぞ 」
(『東京物語』)
不意に身体を本来の波にかえすこと。無常とはなにか? ただ映画において、それが重要だと言えるのは、時間だ。空隙、あるいは待機としての。生きるものとしての。