ノンフィクション小説の先駆けである作家トルーマン・カポーティを追いながら、精神が引き裂かれていく過程を懇々と描き出す所に、アメリカが歩んだ悲劇を投影させているのかもしれないと考えると、この映画の「本当の恐ろしさ」がじわじわと迫ってくる
実際の殺人事件を小説にする
今となっては、目新しくはないテーマと小説の執筆裏話ではあるけれど、この映画で取り上げられている小説『冷血』は、当時としては新しいジャンルであり、いわば「殺人事件が娯楽になる」現代的な現象の出発点
現場の視察
死体の確認
犯人との面会
その中で
殺人者が持つ一種の人間性に、カポーティの純粋さが共鳴しながらも、一方では、「早く死刑にならなければ小説が完成しない」という悪魔的なささやきに、共鳴していたはずの彼の純粋さが喪失されてゆく
ある一つの物事の達成
その裏の逃れられない犠牲
それは紛れもなくアメリカ的な悲劇であり
カポーティの崩壊(の起源)の中に、アメリカの崩壊(の起源)が絶妙にリンクしているんですね
しかも、伝記映画という枠組みを大きく外していないのが何気に凄い
一見地味で、ひたすら暗いだけの映画なんですけど(おい!)、ベネット・ミラー監督のその着眼点、F・S・ホフマンの全身全霊をかけた演技に魅了される
喪失と崩壊という悲劇を、1人の人間という「小さな」単位によって「大きく」暴いてみせた1本!
フッと湧き出た狂気が、それまでの静かで穏やかな生活を一瞬で破壊する、それがまた、何処にでも起こり得る怖さを内包しているけれど、事件の残酷さよりも、カポーティの晩年がそれを一番物語っている気がした