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スネーク・アイズのnetfilmsのレビュー・感想・評価

スネーク・アイズ(1993年製作の映画)
3.8
 映画監督エディ・イスラエル(ハーヴェイ・カイテル)は、念願の企画だった『鏡のマリア』の製作に取りかかる。崩壊していく夫婦の姿を描くこの映画は、TV界のスターサラ(マドンナ)と、エディの長年の友人であるバーンズ(ジェームズ・ルッソ)が主演を務め、クランク・インする。だがこの映画の撮影はやがてエディの妻マドリンも巻き込んで狂気のドラマへと姿を変えていく。映画界の内幕を、虚構と現実の混濁する様を力強いタッチで描いたNY派アベル・フェラーラの真骨頂たる1本。冒頭のえらく凡庸な家族の食卓の撮り方に嫌な予感がしたが、あのある種の空虚さは、来るべきクライマックスを暗示している。映画の中には、『鏡のマリア』という映画の中のカメラがまず一つあり、フレームの外の彼らの行動を捉える最もオーソドックスなフィルムとしてのカメラがあり、エディが主演の2人に演出の意図を伝えるビデオ・カメラがあり、三種類の質感も機能性もまったく違うカメラがスリリングに行き交う。それはフィクションとノンフィクションという単純な二極構造ではなく、ビデオ・アートの領海に侵犯し、スクリーンとフィルムの混濁した世界と彼らが行動する現実世界との境目の意識を失わせる。

 ここで撮られている映像の強度は、酒場でカイテルがチラ見するボクシング映像や、雪の降る冬のNYに戻る飛行機内でチラ見するオリンピック広報映像との対比で暗喩的に繰り返される。凡庸な映像との対比が、ここまで明確に描かれているフェラーラの作品は稀だろう。これまでのフェラーラ作品の根底にあった犯罪としての暴力はここにはない。『鏡のマリア』という暴力描写ありきのフィクション映画に2人の俳優が取り組み、それを見守る監督の目があり、静かにゆっくりと暴力が3人の内面の中に入り込んでしまう。映画と実生活という切り離すことの出来ない領域に対して、監督と2人の主演俳優の葛藤が、セックス、ドラッグ、宗教と絡み合いながらやがて一つになる映画の素晴らしさは、90年代のフェラーラ屈指のカタルシスだろう。その倒錯した世界は、エディの妻がNYからハリウッドにフライングで現れたところでピークを迎える。エディの妻マドリンを演じるのは、実際のアベル・フェラーラの奥方であるナンシー・フェラーラその人である。フィクションとノンフィクション、映画監督と俳優、夫と妻、ドラッグとキリスト、それぞれの危ういバランスが音を立てて崩れる時に剥き出しになる狂気の瞬間こそ、フェラーラ映画の真骨頂である。

 その象徴として『鏡のマリア』内のシーンの1つ1つをカットを割らずに長回しで撮る。途中エディとバーンズのキャンピング・カー内での口喧嘩も長回しで撮り、人間の生理的な喜怒哀楽を捕まえて離さない演出で、俳優陣を追い込んでいく。
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