miporingo

魅せられてのmiporingoのレビュー・感想・評価

魅せられて(1996年製作の映画)
3.3
19歳のアメリカ人女の子がひと夏イタリアのトスカーナ地方で自分探しをして過ごし恋人を得るという単純な話にも置き換えられるけれど一筋縄ではいかないけっこう言いたいことがたくさん詰まっている映画だと思った。観終わってからベルトリッチ監督だということを知って、この独特のフェチズム的視線は「ああ、なるほどね」であった。リブ・タイラー演じるルーシーのみずみずしさにはタイトル通り魅せられてしまうが、老齢に差し掛かる女性たち、余命宣告された病気の人などを配置し、若く輝く(ここでは処女であることも重要)時期がほんのつかの間の短い一瞬であることを感じさせることに成功していると思う。それゆえにますますリブ・タイラーが眩しいほどに美しいのに悲しみを伴う気持ちで観てしまうことになる。それとこの映画で欠かすことのできないテーマはセックスだと思う。人生におけるどの段階であっても人はそのテーマから逃れられない。死を間近にした人とまだ男性を知らないティーンエイジャーが夜中の玄関ポーチに座り込んでセックスについて語り合っている。こういうのが日本の映画や小説にもっとも欠けている視点のひとつではないかと思う。考えなければ平穏、触れない方が平和、そういうことを考えてる人はちょっと特殊な人...みたいな感じ?一方、セックスは特別だけど特別じゃない、日常であり生活なのだなあと感じるのは欧米の(とくに欧)作品。
まあどちらがよいというわけではないけど、でも女性がそういう場面できちんとイエス、ノーの意思表示することも含めて積極的に関わっていくことはジェンダーギャップの溝を埋めていくことにも深く関係していると思うので、わたしは日本のセックスに関する表現の扱いを少し見直していく必要はあるのではないかと思う派です。ボカせばいいというものではない。
あと、ジャン・マレーの最後の出演映画になったということを観たあとにちょっとマニアックな方のブログで知った。ギヨームという老人でチョイ役でまったく意味を持たせなくてもこの映画を観ることはできるのだけど、ジャン・マレーがジャン・コクトーの恋人だったことを考えるとこの映画がコクトーへのオマージュ的な意味合いも含んでいるんじゃないかと推測できて楽しい。じっさい作中で使われている言葉の中にコクトーの言葉がふんだんに散りばめてあるらしい。リブ・タイラーが紙片に書き留める言葉たちが白い文字になって画面に浮かび上がるところは、そう言われてみれば、さながらコクトーの絵画作品のようではある。
彼女がパーティーに来ていくドレスはジョルジュオ・アルマーニのものらしいけど、19歳の彼女が着こなせているとはあまり思えなかったな。
水着の上にシャツを羽織ったスタイルやキャミソールとショートパンツとで美しい田園風景の中をのびのびと歩いたり花を摘んだりする姿の方がずっとずっと彼女に似合っていた。
この映画の中では自分のほんとうの父親が誰かということを解明したくて、母親が自分を妊娠したと思われる時期に滞在していた場所をリブ・タイラー演じるルーシーが訪れる設定なのですが、リブ・タイラー自身も父親がスティーブン・タイラーであることをある時期まで知らされておらず、偶然出会ったスティーブン・タイラーの娘が自分とそっくりだったことから母親を問いただして真実を知ったという経験をしている。そういう意味ではリブにとっても意味深い映画だったのではないかと想像できる。
わたし自身はエアロスミスのスティーブン・タイラーを先に知っていたので、『アルマゲドン』でリブ・タイラーを初めて見たときは「え、なぜあの父親にこの美しい娘!あ、でもよく見ると似てるかも...」と思ったのでした。
miporingo

miporingo