Jeffrey

キンスキー、我が最愛の敵のJeffreyのレビュー・感想・評価

キンスキー、我が最愛の敵(1999年製作の映画)
4.0
‪「キンスキー、我が最愛の敵」

‪怪優とされたK.キンスキーは僕が生まれた91年に亡くなった。本作はヘルツォークと組んだ5作を振り返りながら彼らの想いや体験を映す。正に傑作記録映画で非常に興味深い一作…独特の風貌で様々な作品を最高水準に伸し上げたキンスキーの生涯。ラスト蝶と戯れるシーンは優しさを感じる。‬ この作品は2人の類稀な関係の記録を捉えたヘルツォークの力作で、キンスキーと彼の様々(恨みや怒り、傲慢さ、狂気など)な理不尽なまでの対峙が描かれている。暴力に悩まされた数々のエピソードがあり、キンスキーの破天荒ぶり、熱狂ぶり、ヘルツォークの傲慢で危うい人間と、力量を感じさせる様々の映像は、ファンにとってはかなり貴重である。誰よりもキンスキーを理解し、愛し、その狂気を楽しみにしている監督の唯一の理解者だったのだと気づかされる。この作品は少なからず今までの監督とキンスキーの作品を見ている"強者"だけに許された楽む権利が映像となって褒美を与えてくれている。

今思えばヒトラーの自殺を経て、5月初めにドイツは連合軍に無条件降伏を伝えて、この敗戦の年のドイツでは、4月7日にウェルナー・シュレーター、5月31日にはライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、8月14日にはヴィム・ヴェンダースと言う、若いドイツ映画の顔となる人物が生まれている。ちなみに第二世界大戦の話をすれば、スターリングラードでのドイツ軍の悪夢のような長期戦が始められた1942年の年は、歴史的敗北になり、その年のドイツでは、後に有名な女性映画監督となる2人が生まれている。その1人がマルガレーテ・フォン・トロッタとウルリケ・オッティンガーである。ところでヘルツォークは1955年に偶然ながらミュンヘン市内のペンションで俳優だったクラウス・キンスキーと短期間同居する体験をしていて、キンスキーの発作的な怒りを爆発させて、バスルームに閉じこもって内部を全て破壊していた、とこの作品で紹介していた。

監督は翌年の56年にカトリックに改宗し、ユーゴスラビアとギリシャに長い放浪の旅に出たと言う話も有名だ。その頃から「自分は映画を撮るのだ」と言う運命を意識するようになったそうだ。監督は59年にはアルバイトをしながら数ヶ月後マンチェスターで過ごしており、カンヌ国際映画祭では、フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」で監督賞を受け、アラン・レネの「二十四時間の情事」には国際映画評価連盟賞が贈られていた。その少し前はクロード・シャブロルの「美しきセルジュ」「いとこ同士」この作品はベルリン映画祭の金熊賞に輝いていた。今考えると凄い時代だなぁと思う。そしてゴダールの「勝手にしやがれ」も発表されることになり、フランスでは、この年24人の新人監督が確かデビューしていたと思う。翌年には43人がそれに続くなど、まさにヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれるにふさわしい大きな大事件が起こっていた。

それらの作品群は衝撃を持って世界の映画ファンに受け止められて、同然だから隣国ドイツの若者たちも大いに刺激をうけたのだろう。そもそもドイツの映画が出遅れた理由の1つには、短編映画には優秀作品奨励制度、長編映画には制作助成金制度等を設立していたフランスと違って、ドイツではそのようなものがなくて映画を作る環境が恵まれていなかったのが1つの原因だと感じる。だから1962年の第8回西ドイツ短編映画祭の会場でいわゆる「オーバーハウゼン宣言」と言うものが出されたのだと思う。これにより映画講座を開講したり様々な活動が広がって、ヘルツォークはこの年に最初の短編映画である「ヘラクレス」を撮影している。

そこからヘルツォークがカンヌ国際映画祭で「フィツカラルド」発表した同年の6月10日にはファスビンダーが自宅で短い生涯を終えたと言うあまりにも残念なニュースか流された。因みに彼は68年から82年までの14年間にいて彼は24本の劇場映画と15本のテレビ映画を発表している。ちなみに言うと翌年の1983年には、ヘルツォークはヴェンダース、ブラームスらと来日している。この様子が見れるのはヴェンダースの「東京画」である。3人が東京見物をしている貴重な映像である。更に言うならその年の11月25日にはアイスナーがパリで死去している87歳で…。それにアハタンブッシュの「幽霊」の作品を攻撃して監督たちが更に攻撃仕返しをして若いドイツ映画、いわゆる幽霊事件も起きた年である(詳しい事は各調べてみて欲しい)。

そして1991年にクラウス・キンスキーがサンフランシスコ近郊の自宅で死去したのだが、91年は私の生まれた年である。
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