菩薩

私の20世紀の菩薩のレビュー・感想・評価

私の20世紀(1989年製作の映画)
4.8
きっとこの作品をジャック・ラカンの諸思想(鏡像段階論、現実・象徴・想像の三界区分、父の名、ファルス、母親と娼婦)などを用いながら解説出来れば分かりやすいのであろうし、格好良いのだろうけど、いかんせん俺は文学部出身とは言え史学科であるし、ラカンなる人物に関しても寺山やら澁澤の書籍で軽く触れた程度(それすらうろ覚え)であるからしてよく知らない、その辺りは哲学科出身の方々にお任せするとして、まずこの映画に一箇所だけ挿入されるボカシはまさに20世紀的であるとのどうでも良い情報をお伝えしておきたい。

電気を手にした人類は温もりと明るさを手に入れたのだろうが、同時に星空の輝きを忘れ、闇の恐ろしさを見失ったのではないか。20世紀は光の時代であり、マッチの火は電灯に、荷を積むロバは夜通し走る汽車に、健気に飛ぶ伝書鳩は一瞬で駆け抜ける電報へと姿を変え、世界は狭くなり、そして速度を上げた。その結果としての20世紀、虚飾と革命の時代は二つの大戦を迎え、人類に大いなる痛手を与えた。しかし我々映画ファンは、映画館と言う暗闇の中で照らし出される光に希望を見出し、息詰まる現実を少しばかり想像の力で柔らげて来た。そんな20世紀は去り迎えた21世紀、電気は遂に温もりすら失い、更に強い光を手に入れ、世界は更に狭く、そして速度を上げつつある。「娼婦とは母親で無いものである」とラカンは述べた(らしい)が、しかし女性には温もりがあり、そして輝きがある、だとしたら我々ペニスを所有する男性には何があると言うのだろうか。「女性は存在しない」とは、裏を返せば「女性を言葉で定義する事は出来ない」と言う意味になるらしい。我々は常に出会い損ねている、我思わぬ所にこそ我がある、愛を「愛する人に自分の持っていないものを与える行為である。その人が決して欲しがらない物を」と定義するのであれば、我々が生きていかねばならぬ21世紀に、闇と光は再び交わり、そうして新たな時代を築く事は可能なのだろうか、そんな事をこの映画のラストシーンの先に思った。
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