映像は記録であると同時に記憶である。きわめて個人的な記憶として機能する映像が、日記/随筆という形で束ねられ、さらに詩の領域へと深く深く潜ってゆき、最初は単に、一個人の抒情であった筈のものが、最後には同時代的/全世界的な視座を獲得してしまう、というね。この透き通った光景は、たとえばクリス・マルケルのシネ・エッセイと評される諸作や、タルコフスキー『鏡』、吉増剛造『航海日誌』に通ずるものがある。しかし『リトアニアへの旅の追憶』が、とんでもねえ発明のように思えてしまうのは、他でもない、映像文体の異質さであろう。なんてことない16ミリカメラによって撮影された“一雫の破片”とでも呼びたい映像断片を、さらに細かく、ほぼ無限に裁断=ジャンプ・カットしてゆき、そうやってバラバラにされた無数の破片を寄せ集めて、ひとつの、粘り気のある時空をつくりあげる。ああ、なるほどな、と思ったのは、この、無限に裁断し、自らの手で寄せ集める、という行為は、まさに、追憶の原理/からくりそのものである、ということ。(映画では100の瞬きと表現されていた)。