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リトアニアへの旅の追憶のmasatoのレビュー・感想・評価

リトアニアへの旅の追憶(1972年製作の映画)
5.0
ジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』。
まだ18歳だった僕は大阪の映画の学校の硬い椅子に座って、リトアニアの風景を眺めていた。フィルムによる上映といういま思うと願ってもない環境だったけれど、字幕のない僕のリトアニアは話の本筋さえわからなかった。
それでも、その直前に見たブラッケージの『モスライト』などのいわゆる実験映画的な作品に比べて、この作品は「僕の映画」だと思えた。
見終わったあと、古いブルックリンの街を彷徨うように撮影するメカスの足取りが見えたような気がした。リトアニアで久しぶりの帰国を喜ぶメカスの親戚縁者たちのよく似た顔に涙が出そうになった。
字幕のあるバージョンを見たのはおそらくイメージフォーラムが販売していたVHS版だったと思う。
自分が記憶していたブルックリン、移民たちのハイキング、リトアニアのママが料理を作ってくれる姿、遊ぶ従兄弟たち、青果市場の火事。そんなワンカットワンカットがメカスの言葉によってつながれていくという体験をした。
あの時から、日記映画というジャンルは僕のなかで消えることのないたき火のように燃え続けているような気がする。
日記映画というと、日記のように毎日撮っていれば作れそうに見えるけれど、実はメカス自身も日記映画作品として完成度が高いのは、この『リトアニアへの旅の追憶』しかない。その他にも魅力的な作品はたくさんあるのだけれど、どれも本作には叶わない。しかしそれは、この作品には戦争による亡命などの背景があるから、と言い切ってしまうのは少し違う気がする。
個人的に日記映画のもう一つの完成型だと思う日本の詩人・鈴木志郎康さんの『日没の印象』は、16ミリカメラを手に入れて嬉しくて仕方がない、というもっと純粋な撮影意欲でのみ貫かれている。
メカスでさえ、16ミリカメラを持つという行為に慣れてしまったのではないだろうか、と思う。よく、プライベートムービー作品に批評として言われる言葉として「うますぎる」ということがある。うまくて何が悪い、と思うのだが、やはりうますぎるのは良くないのだ。うますぎると思わせるのは撮る対象よりも、撮り方に気持ちが偏っている、またはそう見えてしまうことを言うのだと思う。
どちらにしても、何かに迷ったときにただ無心に見ればいい、という『リトアニアへの旅の追憶』に出会えたことは人生の大きな喜びだと思う。
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