ワンダフルデイズモーニング

アンドロメディアのワンダフルデイズモーニングのレビュー・感想・評価

アンドロメディア(1998年製作の映画)
5.0
 ハチャメチャな脚本をハチャメチャに撮ってしまうのは単なるハチャメチャで、単なるハチャメチャというのは面白くないのだが、ハチャメチャな脚本を正確に映画にするとこうもヤバいのか。
 近年のインタビューで三池崇史の曰く、
「いつも現場でどういう風に面白くしようかと考えて作業するのが好きなんです。それに“これをきっかけにすごい監督になるんだ”っていう野心というか欲がなかった。“現場に居られるだけでもめっけもんだよね”みたいなことで、それは今でもまったく変わりません。僕らより少し上の世代の監督は、“俺はこういう監督になる、故にこういう作品を撮る”という主張みたいなものがあって、この台詞は言わない、この展開はない、この予算では撮れない、という人が多かった。それは多分、“なりたい監督像”と同時に、“その作品を撮る監督としての生き方”というものに自分の求めるものがあって、それを追求していたんだと思います」。

 『アンドロメディア』には、"俺は映画でこういうものを描くぞ"という野心がない。野心というか、それは言い換えたら"作家として"の矜持を感じないということかも知れない。恣意的にしつらえられてた芸術的な奥行き、いわゆる難解さというものがゼロなのにもかかわらず、物語ることを徹頭徹尾で放棄して展開のみで1時間50分を走り切ろうとする脚本も相当無茶なのだが、この無茶な脚本を受けて映画として精確に完成させている監督の三池崇史にはそれを超える自我のなさというか、無頓着さというか、くりかえしになるが作家としての矜持がない。夥しい数の仕事量を顧みるまでもなく三池崇史は本物の職人だった。この一本を観ればわかる。

 さて、この映画に解釈を垂れることほど無意味な──というよりは空疎な所業も無いように思えるけれど、思ったことは書いておかねば気が済まない気持ち悪い映画語り(それはこの映画に一蹴されている最も滑稽な姿であることは充分わかっているのだが)を、しかし場の特性としてギリ許されるのがFilmarksなのだと涙を堪え歯を鳴らし膝を笑わせながら訴える私は最終的に文字通り蹴りを入れられる罰を受けるのだから許してほしい。

 執拗に「私はマイではなくAI」と語りながらしかしマイの記憶をトレースされマイ自身の完全なるコピーとして振る舞うアイは、だからマイとしてユウや他のSPEEDの人たちと語らいながらも頑なにアイと名乗りマイ本人に嫉妬をおぼえてもいることで自己矛盾を抱えている。ユウや他のSPEEDの人たちも、アイのことはマイと認識し、そのように接し、マイと呼ぶ。
 しかしアイとユウおよび他のSPEEDの人たちの交流や冒険で疎外されるのは、マイとして扱われ続けるアイのみならず、マイ自身もそうなのだ。なぜならマイはとっくに死んでいるからだ。皆はまるでマイと一緒にいる気分で絆を深めていくが、とっくに死んだ本人はそのことを知らない。
かつて好きな人と触れ合えていたマイはもはや自我を持たず、自我だけを持つアイは触れ合う肉体を持つことがない。彼女たちはそれぞれの持たざるものによって等しく現実世界から疎外されている。
 また皮肉なことにこの"等しい疎外"によって島袋寛子が演じた二役はニアイコールな関係を結ぶのだが、それが決定づけられるのが中盤のメリーゴーランドにおける画面越しの不可能なふれあいとあまりにも心の中のイメージでしかないキスそして抱擁。
 ここでユウが吐くセリフにおそらくこの映画のたったひとつの本質がある。
「お前のことが好きだ。誰よりも好きだ。何よりも大切だ」
ここでユウが指している"お前"とは誰かと考えてみれば、アイの中に見ているマイでもあるが、同時にマイの姿をしているアイである。世界からの等しい疎外によってニアイコールとなった二人は、大好きなユウの認識の中でついに文字通りアイマイな存在となっていく(と書いてみたがこれ偶然だろうな、まさかダジャレじゃねぇだろうな)。証拠として、このセリフを受けている時のアイの姿はCGから実写へと明確に変貌している。これはアイがマイとなったのではなくて、ユウの認識の中で二人がアイマイな同一人物になったということなのである。これは解釈の問題ではなく絶対そう演出されている。(三池崇史は本当に正確に映画を作っている!!)

 さて、ところでアイとは意味として一体何だったのか。しつこくマイとの差別化をAIとスペルまで唱えて訴える彼女の正体とは?
 ラストシーンでアイは入水自殺の幇助をユウに委託するが、(あってないようなものながら)なぜアイは死ななければならないのだろうか。本当に彼女が言うように「自分がいると世界を壊してしまうから」でしかないのか?むしろそれは、ユウにとってという意味で納得できるものだろうか?

ユウが「できっこねーじゃん!」と俯き逸らした視線が受け入れるに至る彼女の願いは「これ以上、人の罪を深くしたくない」という言葉による。この映画で起こされた最も大きな"人の罪"とは何か。
それは死んだ人間を甦らせることである。どんな悲しみによってであれ、一度死んでしまった人間を技術によって甦らせることは世界の摂理に反している。だからパパは死ななければならなかった。
 別人格なのだと本人がいくら主張したところで、世界が彼女を死者の名前で呼ぶことは、彼女を"一度死んで甦った存在"つまり禁忌なる存在としてしまっている。
そしてそのことはなにより、誰より、大好きなユウに呪いをかけてしまうことでもある。アイがくりかえす"私はマイではなくアイ"というのは、裏を返せば"マイはもう死んでしまったんだよ"というメッセージに他ならない。ユウも、他のSPEEDの人たちも、(無意識であれ)それを受け入れられなかったからマイと呼び続けたのだ。

 入水自殺を幇助するユウが、マイの死を本質的な意味で理解したのかどうかは分からない。しかし入水しながら「さようなら、大好きな…大好きな…大好きな……」と遺言を残す声にユウが応える言葉は「アイ」であった。「マイ」ではなかった。

 こうしてアイは、肉体を持たないままに自我をも失う。しかし、彼女には思い出がある。それはマイも持ちえなかった冒険の記憶だ。ゆえにもうアイはマイではない。だからこそ、ラストシーンでアイの両手に繋がれたるのは、子供の頃のユウの手のみならず、マイの手もまたなのだ。

 ではユウはどうなるのか。肉体も自我も相手二人分の記憶も持ちながら、ただ愛する人を二度喪った悲劇の男なのだろうか。そうではないだろう。ユウにはこれからの人生という未来があるのだ。それは彼にとっては過酷なものかもしれない。だけど、愛する人が求めながら手に入れられなかったこれからの未来を、彼は投げ出すべきではなく、またそのようにはしないだろうと我々は願う。その願いが、「ALIVE」という題を冠されたエンディングテーマに、島袋寛子の声で響く。

"緑が枯れてくように未来が色褪せて見えても
涙の数だけきっといつか花は咲く日が来る
遠く離れても明日が見えなくても愛を止めないで
この海の果てはやがて青い空へ続いてる
一人じゃない
この胸に愛は生きてる"


──痛っ。
誰かがいま私を蹴った。
もう誰もいないはずなのにね。
いやー変な映画でしたわ。