ワンダフルデイズモーニング

ハニーレモンソーダのワンダフルデイズモーニングのレビュー・感想・評価

ハニーレモンソーダ(2021年製作の映画)
-
あまりにも最高──。
 日本映画に燦然とおっ立つ"青春キラキラ映画"そのエッセンスがすべて凝縮されながらもタイトルの通り甘いだけではなくシュワシュワと弾ける爽やかさを伴って描かれている。最高。ずっと観たいと思ってたけどようやく観れた。やっぱこういう映画はお金を払って劇場で観なければいけないと配信でダラダラ観てしまったのを強く反省した。

「おはようからおやすみまで」という言葉は「揺り籠から墓場まで」の縮図つまり人生と相似関係にある生活のすべてを指す標語だが、たてがみブリーチのライオンに「おはようからおやすみまで」というコピーを独占されながら、同じ学校で繰り広げられる青春恋だけが同じく生活という枠組みの中で限定的に使えるカウンターがある。それは「おはようからおはようまで」だ。大学生以降ならいざ知らず、家→学校→家と循環するのを余儀なくされている学生は、ずっと一緒にいたい相手に面と向かって"おやすみ"が言えない。だから、朝の教室で毎日再会しながらにして"おはよう"を繰り返す。今日の"おはよう"は明日の"おはよう"によって区切られる。学生の人間関係における一日の単位とはこの24時間刻みなのだ。だからこの映画が「おはようを言う」を目指すことから始まって、「おはよう」を言って、最終的に「おはよう」を告げて終わるのは、構造として完全に正しい。
 では、「おはよう」から次の「おはよう」までの24時間、その反復だけが学生の本質なのかというと──まぁ俺なんかはそうでしたけど……この映画は青春恋物語なので、そういうことにはならない。
今日の「おはよう」と明日の「おはよう」は十代にとっては全然違う。それは石森が編み出した質問ノートによって象徴されている。同じおはようをつげる毎日だとしても、昨日まで知らなかったことを今日ひとつ知った。今日まで知らなかったことを明日ひとつ知れる。相手を少しずつ知る。この積み重ねは、それによって距離が近づくという意味よりも、昨日→今日の時間変化の意味が強くて、かつ、すでに365個の質問が用意されていること(および石森が365個で一年ずっと三浦君と一緒にいる証明になると言うこと)が、本来かならずしも良いことだけを意味しないはずの"変化"という概念に、それでも良いことだけを意味しますようにという未来への祈りをこめている。

 この映画は恋のトキメキもさることながら、メインキャラクターがそれぞれの状況に対して"変わる"もしくは"変わろうとする"というのを主題にしている。
石森ちゃんと三浦君が特徴的なのは、二人とも「完全に自分のことしか考えていない」点にある。
 三浦くんというのは彼の境遇により、自分のことしか考える余裕がないという言い方ができる(マジ頑張ってる…つらすぎるだろう)。それは友達に囲まれた学校の中においても自分一人の部屋を見出してそこでじっと過ごすことや、誰もいない真っ暗な部屋にあらわれているが、彼自身がのぞんでいるというよりもそのように周りを心の深奥で疎外して、一定時間一人の空間に閉じこもって生きることが癖になってしまっているということだ。周りの人たちを大切にするためにこそ、バランスを取っているのだ。
 対して石森ちゃんというのは、基本的にマジで純粋に自分のことしか考えていない。誰かが石森ちゃんを心配して差し伸べる手を目にしても、彼女の頭の中にあるのは常に「手を差し伸べられている自己」であり、三浦君への気持ちおよび行動も、三浦君がどう感じるかではなくて「自分がどう感じているか」の発露しかない。石森ちゃんが自分のことだけ考えてるのは、たとえば夏祭りにあゆみちゃんと行った時にたまたま出会ったサトルくんを見て、「二人で楽しみなよ私は大丈夫」とかなんでもいいけどひと言もないまま暗い顔になって無言で去るところや、もう別れたっつってんのに元カノが元カレたる三浦君にまだ心残りがあると知るやいなや三浦君をろこつに避けるところや、三浦君が好きだからってきかれてもねぇのに元カノに「わたしは三浦君がすき」と宣言するところや、三浦くんに突然告白するところや、心配だからという一心だけで三浦君のバイト先に踏み込むところや、クリスマスパーティーでみんな気を遣いながらも楽しそうに振る舞うのにマジで暗い顔してるところ。悪く言えば自分本位である石森ちゃんのこうした行動は、しかし「変わりたい」という彼女の願いか(友達とか彼氏ができるかどうかとは別として)叶ったあらわれとも言える。植物と植物の絵に囲まれた自室で文字通り"石"の揶揄通りにじっとしているのが彼女のデフォルトだが、"石"とは特に推積岩を例にとれば、生物の死骸や泥や泥や小石が永い時間をかけて固まったもので、つまり"自らが動くことのないモノ"の永い時間の結晶である。そんな石の比喩である石森だから、彼女の"変わりたい"とは、何かを手に入れることや環境が改善することではなく、"自らが自らのために動く"ことに他ならない。
 そう考えれば、石森の達成すべきゴールは序盤で為されているから、この映画の物語は三浦くんが自らを変えるための時間だったと考えられる。尋ねられない限り自らを語ることなく、また心の扉を頑なに開けなかった三浦くんが、なんだかきっかけは忘れたが──確認したところ、「写メを見て」でした。写メをじっと見て、何枚も見て、で、心を彼女に開く……と書くとわけわからんのだが、それでいい。恋にまつわる衝動は、当人以外からは「?」でいい。無理やりかこつけるならば、とにかく三浦くんは、バイト中に彼女との写メ、つまりアルバム、つまり思い出、つまり積み重ねられたひとつひとつの「今日」をあらためて見ることで、彼が今まで持ちえず、また避けてきた"24時間単位の日々への尊さ"に気づいた……的なことなんだろう。
 繰り返すが、彼の心の動きなんて当人以外は「?」でいい。とにかく彼の体はレモンサイダーのごとく弾けるように走り出すのだ。イルミネーションかがやく聖夜に。愛するハニーのもとへ。そんなのって完璧でしょう。自らが自らのために動く。変わったから動くのではなくて、衝動的に動くことによって自分が変わっていく。そうして変わった自分が口に出す「おはよう」は、昨日と同じ言葉であれど、やっぱり変わった意味を持つのだ。たぶん。