ワンダフルデイズモーニング

(ハル)のワンダフルデイズモーニングのレビュー・感想・評価

(ハル)(1996年製作の映画)
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「リリイ・シュシュのすべて」──というかむしろ「市川崑物語」よりもずっと早く、映画を"観る"よりも"読む"という試みで作られた映画であるのは明白で、森田芳光が「洋画がヒットしてるのは観客は文字(字幕)を読みたいからなのでは?」をスタートにしたという秘話を除いたとて、映画を観れば判然とする。電子メールおよびチャットが実写よりも優先され、台詞よりも雄弁に言葉を伝える。メールであれ現在ではLINEであれ、とくに実写映画において文字ツールによるやりとりをどのように処理し描くのかというのは非常に難しい。私は成功例を見た記憶がない。
 その難しさの理由として、物語というより映画それ自体の躍動感が静止する文字の羅列によってストップしてしまうというのがある。もっと簡単にいえば、文字なんて画面に映しても面白くないのだ。
「(ハル)」がこの問題をうまいことクリアしているかといえば決してそういうことではなく、やはり電子メールの画面がうつると映画自体のリズムは断ち切られ、画面も時間も地続きであるべきものが離小島のようにポツンポツンと点在するような印象になる。だからクリアをめざすというより、森田芳光はむしろ開き直ってそこを逆手にとる形で、実写パートはそのシーンすべてが、一枚絵のスケッチが何枚も並べられているだけのような構成にされている。ように思う。現実の世界では、ハル・ほしの両者とも、相互理解のとれるコミュニケーションをどんな相手とも取ることができない。大切なものを大切にし続けようとして奪われてしまった現在の中で、いままさに目の前にある現実と折り合いがつけられず、だから美しかった過去をだけ胸に抱いて、ヴァーチャルな人間関係で気休めをしていく。だけど過去は経年と共に離れ薄れていって、無味乾燥な現在の孤独だけが肥大していく。
お互いが時速200キロで過ぎ去るのをビデオで記録するのは、過ぎ去る現在をどうにか思い出にとどめようとする行為であって、この瞬間の二人は本当の意味では何も変わっていないし、このての物語はそれぞれが変わらないと出逢えない。
思い出はいつも鮮やか。現在目に映る世界も色盲でない限り色付いている。未決定の、これからどうなるかわからないつまり未来だけが、まだどんな色になるかわからない。ラストシーンがモノクロ処理されているのは、未来を示唆している。