レインウォッチャー

劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
あくまでキッズ向けの範疇で、しかもこれが記念すべき劇場一作めとはなかなか攻めている。

まず20分以上あるアバンタイトルからして、主人公であるはずのサトシ&ピカチュウは出てこない。
最強のポケモン・ミュウツーと幻のポケモン・ミュウ、当時の二強人気に賭けたところもあるだろうけれど、単にお祭り映画で終わらせるのではなくて、何か明らかな力点があるのは確かだと思う。

クローン技術から人工的に生まれたミュウツーの出自をじっくり描いて、しつこいくらい何度も「私は誰だ、何のために生まれた」というテーマ、タイトル『逆襲』の意味を刷り込む。

さらに、ここでミュウツーと会話するアイツーの存在。アイツーはやはりクローン技術の賜物で、ある少女=人間だ。しかし彼女はミュウツーに対して「あなたと同じような存在」と告げる。
これは、アイツーもまた人工生命体という意味もあるだろうし、そもそも人間とポケモンは同じ生命なのだ、という定義づけでもある。本編に入って以降アイツーは登場しないのだけれど、冒頭のこの一発が、クライマックスの展開を多様に観させる力を生んでいる。

オリジナルとクローン、同個体どうしで争うポケモンたち。しかもポップな必殺技ではなく、わざわざ肉弾戦で殴り合う。このシーンは、上述のアバンと同様に異様といえるほど長く、明らかに意志をもって「見せつける」ために描いている。

時は1998年、ヒトゲノム計画やインターネットといった技術が加速すると同時に、地球温暖化というワードの認知が一般的になったり、世紀末ムードが漂っていた時代。
なにせこの前年には『Air / まごころを、君に』だし、翌年には『もののけ姫』だ。ヒトはこのままで良いのか、どう生きるのか。迷いに迷っている。

上述の「戦争」シーンは、そんな時代感を透かした生命倫理考的な解釈も可能だと思う。そもそも『ポケモン』シリーズは、ともすれば闘犬やコロシアムのような見え方をし兼ねないデリケートな世界観。今作はその自己批判であり、カウンターでもある。(※1)

また、わたしとしてはそれ以上に、「人間も同じだなあ」と考えたりしていた。
人間どうしが繰り返す大小の争いも、結局はDNAを比べてみれば誤差くらいの違いしかない者どうしの諍いであり、クローンのような自分を殴っているに過ぎない。そしてそれでも、接触すればテリトリーをめぐってやがて摩擦が生まれ、排除しあう大きな流れがあるということ。

そんなことを考えさせつつ、じゃあ生まれてくる意味って何なんすか…という(冒頭のミュウツーと同じ)問いに、今作はなかなか鮮やかな答えを用意している。

結び近くで交わされる、サトシとカスミの会話。
「なんで俺たち、こんなところに居るんだ?」
「さあ?居るんだから、居るんでしょーね」

何の衒いもない軽いトーンなのだけれど、しれっとすごいことを言っている。
居るんだから、居る。生きる理由、誰かを生かしたいと思う理由に、いまここに生きてるから以上のことなんて本当は必要ないのかもしれない。

わたしはこれまでポケモン映画に触れることなく成長してきたのだけれど、もし子供時代に今作を観ていたら、良いトラウマが根付いたことだろうと思う。スカーレット・バイオレット、久しぶりにやってみようかしら。

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エモーションの中心となるのはやはりピカチュウ(とサトシの関係)で、特にピカチュウがクローンとイヤイヤしばきあう時間は本気で胸が痛い。画面に駆け寄って止めたくなる。

それもこれも、大谷育江さんの豊かすぎる表現力あってこそ。アンミカの白が200あるなら、大谷の「ピカ」は2000あるんじゃあないかな。

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※1:『うる星やつら』でいうところの『ビューティフル・ドリーマー』的な。