harunoma

J・エドガーのharunomaのレビュー・感想・評価

J・エドガー(2011年製作の映画)
4.5
「ずっと逃げ続けていたから」と半ば歎息を伴った声で、電話を通し話す母親は、
元首相のその死に、そう感想を述べていたが、twitter よりも妙に生々しく腑に落ちる言葉だった。
とはいえあの時過去数回は、両親夫婦共々招待され参加したという桜を見る会(帰ると、おみやまで付いてくる。ともすれば、ここに及んで自慢げに書くこと自体が、権力のブランドの目に見える許容(そんなものがあるとすれば)の贈与サービスに包摂されるとやはり人情でちょっと嬉しく思ってしまうように、前近代的に事態は推移するのだから、アベ友なる人々の感情も類推しえる範囲にあると言える)なるなんとも牧歌的な名称の宴会は、1952年の吉田茂から始まるらしいが、私物化と陰謀のスケールがあまりにも安っぽい(一円たりとも財政出動しない財務省ドケチ国家の長の側面と表裏一体)のに、諸々の悪政の犠牲者は数え切れないという負の痛ましさだけを後に残し、凡庸すぎるあの顔(成蹊大学卒、からっぽのボン)は、とてもではないが、この J・エドガーと比べても、その倒錯(素晴らしい倒錯と、冒頭からの狼狽、自信のわりに小心)のなさ、独裁者の恐ろしいまでの孤独もそこにはなく、いかに現実は物語になりえないかが、いま現実になっている。NHK統一教会の偏向、隠蔽、改竄解釈、忖度報道が続き、報道の情報統制が北朝鮮並み。金晋三総書記の指導力のたまものが現在のNHK統一協会の報道番組の姿勢。
最後は、背後から二発も無防備に撃たれるが、凶弾の爆発音と煙は馬鹿でかく現代的であり、むしろその空白の3秒の、いやそれより前から、もはや確信に満ちた暗殺者の動きがやはり主人公であったということだろうか。ここだけが、この無名の怒りだけがどうやらアメリカ映画的とも言える。とはいえ、チェンジリングよりいいかと言われれば、その記憶はない。とりあえず、愛する者ではないあらゆる者の無名の冥福は祈れるはずもなく、死者もまた隣人、だと一体誰が言えるのだろうか、死者は隣人とかそういうものではない。ずっと逃げ続けていた者の最期。
harunoma

harunoma