青雨

マディソン郡の橋の青雨のレビュー・感想・評価

マディソン郡の橋(1995年製作の映画)
4.0
女が女であることを深く考えてみることは、男が男でいることを深く受け入れていくことに等しく、その逆もまた同様だろうと思う。

たとえば、僕たちがどこかで誰かとすれ違うときに、相手を「人」と思うことは決してない。間違いなく、少年少女、若い男女、中年から熟年の男女など、すべて「性」として認識している。また認識する主体が、上に挙げた男女のいずれかによっても、認識する対象は色彩を変えることになる。

そのように、男が男であり、女は女であるならば、それぞれの性を全(まっと)うすることが、生を十分に生きることにつながる。まただからこそ、LGBTQという性の在り方も、男女と同じ意味で深く受け入れられるべきだと僕は思っており、マイノリティであることが本質にあるわけではない。

また、それぞれの性を生きることは、直接的な行為や恋愛状態を持続させることを意味するわけでもない。むしろ、それぞれの性をうまく生きられないときほど、直接的な行為や屈折した主張へと向かうのではないだろうか(たとえば男は男であることを、女は女であることを確認するために)。

一見すると、クリント・イーストウッドにしては珍しい恋物語のように見えるものの、他の作品と同様に、やはり本作でも、彼はある種の弾丸を撃ち放っている。またその弾丸の軌跡は、性的にしか存在しえない、彼自身を/僕たち自身を撃ち抜くことになる。



この『マディソン郡の橋』を初めて観たのは20歳の頃。公開当時43歳のメリル・ストリープと、62歳のクリント・イーストウッドを前に、母親とおじいさんの恋愛という目も当てられない話に見えたとしても、仕方がなかったように思う。

しかし、これは当時から感じていたこととして、単なる不倫を描いたものでもなければ、ましてや一般的な意味でのラブストーリーでもなく、性を生きていくことの困難をこの映画は描いている。

単なる恋愛ものであれば、恋の渦中を描こうとするはずであり、不倫ものであれば、道徳の破れを描こうとする。けれど、この作品はどちらも主眼としてはいない。フランチェスカ(メリル・ストリープ)の息子と娘が、それぞれに家庭を持つ視点で描かれていることにも、そのことは表れている。

ですから、ロバート(クリント・イーストウッド)は、あくまでもフランチェスカの女性性を映す鏡のように機能しており、彼女にとってのロバートとは、かつて教師として生きながらも家庭のためにあきらめた、女としての輝きを映す存在として描かれている。

そうした意味で、たとえばロバートから馬鹿にされたと思い込み、意趣返しをする場面なども、たいへんナイーブに描かれていたように感じる。また、そのように女としての輝きを求める心が、やがてロバートへの想いと不可分となっていき、袋小路へと入り込んでいく描写も素晴らしかった。

閉鎖的な町であることを察して、会うのはまずくないかと尋ねるロバートに、それでも会いたいと答え、撮影場所で写真におさまるシーンには胸が詰まりそうになる。そして、あまり似合っているとは思えないドレスを着て、精一杯の輝きを見せようとする姿や、別れが近づくなかで、ロバートに過去の女たちのことを問いただす場面などは、どんなふうに人の思いは錯綜するのかを伝えてやまない。

そして別れた2日後の雨の日。

夫の運転する車の助手席に座りながら、信号が青になっても進まないロバートの車が目の前に現れる。そっとドアに手をかけながら、フランチェスカは引き裂かれるように前方を見つめる。このシーンのメリル・ストリープの圧倒的な演技。なんて人だろうと心が震える。

もしかすると、未来よりも、過去に置いてきたもののほうが多くならなければ、この切実さは分からないかもしれない。その切実さの向こう側に描かれる、人それぞれが抱える思いの愛しさも。

恋愛を描いたものでもなければ、不倫を描いたものでもない。また物語とは、こうした引き裂かれる状況を通して、僕たちの抜き差しならない生の本質を、いつでも物語ろうとする。
青雨

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