きゃんちょめ

桐島、部活やめるってよのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

桐島、部活やめるってよ(2012年製作の映画)
4.6
【リア充の空虚さを描く】
この映画は、リア充であることのつらさを描いている映画だ。リア充は、空気を読めるし、容量が良く、顔が良く、モテる。しかし、リア充の心には、言いようのない空虚さが常にある。 非リア充たちは、一般に空気が読めないし、自分の好きなことをとことんやっているので、なぜか生き急いでいて、顔も汚い。リア充たちは、勉強オタク、映画オタクみたいな非リア充たちを見ながら、実は、言い知れぬ空虚さに苦しんでいる。彼らは何にも打ち込んでいないからだ。実はリア充というのは、非リア充やキモオタたちよりもずっと空虚なので、本当につらいのはリア充の方かもしれない。「リア充のほうが非リア充よりもつらい」と主張する映画はまれにあるが、その代表は『桐島、部活やめるってよ』であると思う。「できるやつはなんでもできて、できないやつはなんにもできないってだけ(=菊池 宏樹のセリフ)」になっておらず、なんでもできるやつにさえ通奏低音として悲哀が聞こえている、という映画だと思う。

【桐島とは天皇のことではないのか】
桐島とは天皇だ、と考えてみてはどうか。この映画は天皇が生前退位する話ではないのか。「何言ってんだおまえ」と思ったひとは、吉田大八監督のインタビューを見れば分かる。桐島とは天皇のことだ。『ナッシュビル』におけるアメリカの理想の大統領と言ってもいい。

【ある種の見方を退ける】
ある映画批評家によれば、この映画は、「負け組あるいはボンクラの憂さ晴らしのための映画」だという。学生時代に不遇だった人は、こういう映画を「負け組が挽回する映画」として見てしまう。しかしそんな単純な話ではないと思う。それどころか、「高校生は部活だけ頑張っとけばいいんだ」という熱血映画ではなおさらないと思う。この映画を、「負け組が勝って勝ち組になった」と単純化してしまうと、それはただ大人になった映画部の武文が寺島竜汰や友弘を逆差別しているだけになってしまう。劇中に雑誌『映画秘宝』が登場し、それが童貞である友弘にはたき落とされるシーンがあるが、そのことをもう少し創刊者の町山智浩氏は考えてみるべきだと思う。たしかに「君よ拭け、僕のこの熱い涙を!」なんて言われたら、笑われるだろうが、しかしこの映画は、その笑っている方もキツイという映画だと思う。青春時代をみんな美化しているが、実は同調圧力の中を渡り歩いてきて、心底、苦しかったはずだ。『ルールズ・オブ・アトラクション』のように、青春時代を美化するどころか赤裸々に残酷に描くこともできるのだし、この映画はむしろそういう系譜に連なる映画だと思う。つまり、リア充の空虚さを描いた映画だと思う。己の弱さをゾンビに食べてもらう映画だと思う。

【不在の中心を巡る物語】
この同じ時間を複数の視点から繰り返すというスタイルの映画は、キューブリック監督の『現ナマに体を張れ』やガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』やポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』、シドニー・ルメットの『その土曜日、7時58分』とよく似た構造の映画だった。「不在の中心」をめぐる物語というと、ローレンス・カスダン監督の『再会の時』やヒッチコック監督の『ハリーの災難』や、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』や、スコセッシ監督の『沈黙』におけるゴドー(=God)のことも思い出す。

日本社会では、どの会社にもリーダーが一応はいる。しかし、恐ろしいことに、本当の意味でリーダーをやれているひとは実はどこにもいない。なぜなら、リーダーだと思われていたひとは実はもっと大きな枠組みにおいては下っ端のひとりだったりするから。同様に、部活には、いつも桐島がいてくれるし、その桐島にも桐島がいる。そして本当のリーダーは決して映らない。桐島視点の映像も幾つかあるが、桐島自体が描かれることはない。

【高校という地獄】
コミュニケーション能力の差が一番開く時期、それが高校時代だ。女の子の髪の毛をクシャクシャって出来るような、高いカーストのグループが出てくる。このピラミッドは一度固定されると決してひっくり返ることはない。真剣なことを言うと半笑いでバカにされる。それが高校という地獄だと思う。そしてこの高校には中心がない。

桐島はスポーツ万能男子で、かすみはモテるイケてる系で、沢島亜矢は吹奏楽部の非モテ女子である。学校というシステムの中心にいたのが桐島であったが、突然桐島は生前退位をしてしまう。前田と沢島とキャプテンの3者だけは、そもそも高校というシステムにおけるアウトカーストだったため、桐島の生前退位に動じないのであった。しかし、菊池宏樹は動じてしまう。

【手段と目的の系列】
ある日、桐島が消える。手段と目的の系列が突如切断される。こうしてみんながニヒリズムに到達する。「俺が監督になったらあいつらは使わない」とルサンチマンを漏らした友弘も「Jリーグに出れるわけじゃないのになんで体育の授業のサッカーで点を入れる必要があるんだよ」と漏らしはじめる。菊池宏樹は、何とか前田涼也を何らかの手段と目的の系列に落とし込みたくて、「なんで映画監督になりたいの?女優と結婚したいから?アカデミー賞が取りたいから?このカメラが好きだから?」とふざけたフリして問い詰める。宮部実香は「内申書のためだよ」と言ってバトミントンへの真剣な夢をごまかす。「何のためにバスケやってんだっけ?」と聞かれた友弘が「バスケが楽しいからだよ」と答えると、「だったらバスケ部入れば?」と寺島は手段と目的の系列に埋め込もうとする。しかし、「いま作ってる映画が僕の好きな映画に(もう既に)繋がってる気がするんだよね。」と答える前田だけは、手段と目的が一致しているのだ。沢島亜矢もそうだ。ワーグナーのローエングリン(Lohengrin)の「エルザの大聖堂への行列」は結婚式の曲だ。沢島が受けた痛みは音楽として昇華される。部活に戻ることを彼女は選ぶ。

東出昌大が演じた菊池宏樹は世界全体に思えた学校には広大な外部があることに気づく。

【顧問と前田のズレ】
「半径1mの映画を作れ」と等身大の青春映画制作を説く顧問の話は、実は間違っていない。実は『桐島、部活やめるってよ』だってそういう青春映画にも見える。しかし、この顧問はやはり何にも分かっていない。つまり、前田の説くロメロのゾンビ映画の方が、明らかに顧問の話よりもリアリティがない。この点で顧問の指摘は正しい。しかし、顧問の言う半径1mの映画がうまく撮れるようになるのは、ゾンビ映画をうまく撮れるようになってからではないのか。


【違和感に対する違和感】
前田は東原かすみと映画『鉄男』の上映館で出会ってしまう。しかし、かすみは『鉄男』に来てるくせにタランティーノのことも『ザ・フライ』のことも『ボディー・スナッチャーズ』のことも知らない。ここで抱いた違和感は後で決定的になる。寺島の腕にミサンガを巻くかすみを前田は見てしまうのだ。しかし、「なぜかすみは『鉄男』を見ていたんだ?ほんとに偶然だったのか?」という違和感に対してのさらなる違和感も残る。


【意味は自分で見出すしかない】
キャプテンはドラフトが来るまでは野球の練習を続け、スカウトもないのに待ち続ける。ひたすら地道な努力を重ねる。人はこの海を、喘ぎながらも、泳ぎ続けるしかない。菊池宏樹はこのことに最初から薄々気づいていたはずだ。それを最後に涙を流しながら受け入れたのだ。これは、世界に意味などないという気づきである。この満天の星空に、星座なんか元からあるわけがない。練習にもいかないのに野球部のバックを持ち続けるしかない。グラウンドを見る。音が消える。背後に座る沢島亜矢も同じ気持ちであることがわかる。「戦おう、俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」というのはこの意である。

【弱さをゾンビに食べてもらう】
屋上で、観客の弱さはすべてゾンビに食べてもらえる。『鉄男』的なリビドーが、前田涼也となって東原かすみを喰う。寺島竜汰のミサンガをした腕が引きちぎられアップになる。カニバリズムによって"浄化"され、映画へと"昇華"される。ゾンビ映画でもあるが半径1メートルの映画でもあるような映画を前田涼也は撮り始める。


【映画芸術とは遊びなのか】
最後に、沢島亜矢の、あの問いかけである。映画製作とは遊びなのか。単なる遊びじゃない、と私も言いたい。では、映画製作とは、カネを稼ぐためだけの仕事なのだろうか。いや、仕事でもないと私は言いたい。商業映画でもなく、娯楽映画でもない映画を久しぶりに見た。
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