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フィールド・オブ・ドリームスのotomisanのレビュー・感想・評価

4.1
 野球とは縁を切ったはずの男、レイが球界から縁を切られたジョーを呼んでくる。
 そのためにすべて自腹を切って農場の一角をつぶし球場にしてしまう。彼とその家族には死んだはずのジョーが見えるし、謎めいたお告げが次々舞い込んでジョーが見える仲間とジョーの同類らが球場に集まってくる。
 彼らはジョーをはじめとする「アンラッキー・エイト」であり、若い時分のレイにも影響を与えた言論家で今は活動にくたびれ切ったというテレンスであり、同じ活動の末農家にしか落ち着き場所がなくなったレイ夫婦らである。農家自体が国の礎と言われながら、穀物メジャーと銀行と空模様の板挟みのリスクだらけ、そのうえ気違いじみた球場づくりに至って、要は三者ともアメリカの負け犬の代表と言っていいだろう。
 こう分析して終わってしまうと死ぬまでジョーが見えずに済んでしまう。だから、観覧者の相当数は映画にジョーの姿が見えないはず、それを取り繕って見えてるふりをしているに違いない、内心がっかりしてるのである。

 1989年のアメリカの負け犬たちがどうするんだ?というと、なんだか他愛もなく野球をやってるだけにも見えるだろうが、ジョーは冥途の仲間に声をかけてレイの球場でプレーするんだという。恨みも深いシカゴでなくてここで、彼らに詰め腹を切らせた球界の制度も組織も関係なく、ただ野球をするんだという。
 レイはそんな彼らが頼みもしないのにLSDの後遺症ともつかぬ声に促され「蛮行」を深めてゆく。20年の下り坂を最低に思うテレンスに言わせれば、それも情熱に駆られたことで羨ましい。しかし、ジョーを始めルーキー・グラハムまで目の当たりにして、彼も一世一代の深入りに挑むことになる。
 ご承知あろうか、あのトウモロコシ畑に分け入るのはあの世巡りに赴くことで、生きて誰一人そこから出て来はしないのである。だから、テレンスはレイの進入を固く阻む。今、死地に臨むのはくたびれた自分一人で十分である。
 それに、レイにはもう一つ見届けるべき事があって、同じ声を聞いて訪れる人々にそれが空耳ではない事を知らせなければならない。レイ自身が、亡くなった時の枯れ果てた父親ではなく、夢多き、まあその夢の続きを息子に託そうとケンカ別れに至ったわけではあるけれど、その父親と夢の現場でプレイヤーとして立ち会う姿を人々に見届けさせるのである。

 そのあと何が始まるだろう?
 無名の農家と無名の野球選手の周りで、知り合ったばかりの大勢がキャッチボールを始め、投打の練習を始め、自然にチームを組んで徹夜のプレーが始まるのだ。
 そこにいつしかアンラッキーな連中を始め、野球をし足りない者たちがトウモロコシをかき分けて現れるだろう。そんな一夜の夢ののちどうなるかは誰にも分からない。
 テレンスが戻るのかも分からない。この日の記録が世に問われるか、それはいつの事かも分からない。ただ、アンラッキーな裁定に沈もうと、合衆国の何たるかも合衆国憲法もご存じない人々の怒号に曝されようとも、毎日が火の車の畑で働こうとも、合衆国の自分に必要なことはしなければ始まらないと、この国もそうやって起こっていったじゃないかと、この夢の場で皆が思い直すのだ。
 歴史の浅い国には若いなりの活の入れ方があるのだ。
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