平坦な表面
かつてナビ派の画家、モーリス・ドニが絵画を「色彩で覆われた平坦な表面」と表現しました。
のっぺりとした彼の作品を見れば何となく言わんとする事がわかるような気がします。
じゃあ、映画はどうだろうか。
未だ映画を「"動く"色彩で覆われた平坦な表面」と表した人はいないようだけれど、
もしや、「映画の父」D・W・グリフィスは映画のそんな側面を見抜いていたんじゃないのか。
第一次世界大戦のさなか、巨額の製作費をかけ弩級のクオリティーで作られた群像劇風スペクタクル巨編。
バビロンとペルシャの戦いを描いたバビロン篇、
サン・バルテルミの虐殺を描いたフランス篇、
キリストの受難を描いたユダヤ篇、
そして現代アメリカで無実の罪を着せられた青年の苦難を描くアメリカ篇と、4つのストーリーが重厚に絡まっていくという斬新なスタイルの本作。
当時の人にはあまり理解されず、
興行的には散々だったみたいです。
だけれど、各時代ごとの文化や背景を忠実に再現する衣装や小物類には一切の手抜きはなく、
そして何よりもそれらを包み込むセットの作り込み方が素晴らしすぎる。
特に今でも語り草なバビロンでのセットやエキストラの圧倒的なスケール感を目にしては、ただただ驚嘆するしかありません。
ペルシャに攻め込まれるバビロンの籠城戦なんて現代でも十分に通用する迫力。
それを全て生身の人間が実物大のセットで演じているんだからほんとに驚きです。
おそらくCG全盛期の現代じゃ絶対に作れない。
第一次世界大戦に参戦しなかったアメリカだからこそ、
他国のいざこざを尻目にこんな大作に巨額の製作費を注ぎ込めたのだとしたら、
世界史の流れから見てもえらく興味が尽きない。
だがしかし、資金力だけでこの映画が成り立ったのではないことは、作品を見れさえすればすぐに分かること。
随所で見られる円熟した映画表現にこそ、監督D・W・グリフィスの研ぎ澄まされたセンスと映画の可能性を見抜く先見性がある。
ごった返すバビロンの群集。
無慈悲なアメリカの絞首刑台。
追手から少女をかばうフランス人神父。
キリストが吊るされたゴルゴダの丘。
大袈裟だけれど、この映画にはどのショットを取っても普遍的な美しさがありました。
弓を受けて倒れる山の娘の最期なんて、はっと息をのむほど。
そんな美意識はやはり非常に絵画的で、
そして芸術的で、あらゆるショットにその感性が宿っている。
そう感じてしまえば、
モーリス・ドニが絵画を平面だと強調して捉えたように、
グリフィスも映画という芸術を2Dの世界と強く意識していたように僕には思えてしまう。
絵画も映画も、
3次元を2次元に還元するという点では共通している。
次元低下の宿命を逆手に取ってそれを表現における武器だと見なすことが出来れば、
映画は2Dにしかできない確固たる表現力を得る。
グリフィスが画面に込めた絵画的な美しさは、
サイレントがずっと抜け出す事が出来なかった演劇からの呪縛を絶ち切って、
映画表現に2次元芸術としての新たな方向性を指し示したんじゃないかと思えて深い。
ほぼ同時代を生きたドニとグリフィス。
ならばグリフィスがドニの言葉をヒントにしていてもおかしくはない。
「"動く"色彩で覆われた平坦な表面」
ならばこれも、あながち僕の勝手な空想で終わらないのかもしれないな。
あぁ、映画って素晴らしい。
第七芸術、万歳。