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赤い河のmasayaanのレビュー・感想・評価

赤い河(1948年製作の映画)
4.2
ジョン・ウェインは、その面構え、眼力、そしてなんといってもその声において、前科持ち風のヒップスターとして、つまり善と悪とが混在した存在として振る舞うことを宿命づけられている。そう、西部(ないしアメリカ)においては、ある種の正義が時に不平等または暴力たり得、またある種の犯罪が時に人を正しく裁き得るという、極めてアメリカ的な倫理を、彼は絶え間なく荒野を疾走しながら体現しなければならないのである。

また、西部劇におけるジョン・ウェインの隣には、いつも子分・弟子・息子のような存在の青年がいる。彼らは、もちろん、つまらぬ映画の見方をするならば、来るべきアメリカの新たな価値観の代弁者として造形された存在であるのだろう。それは、9,000頭の牛の大移動という史実を伝説として語る正統派の西部劇であるこの『赤い河』でも同様である。つまり、ここでの父の承認、ないしはエディプスコンプレックス的な主題は、どうしたって多義的なのである。

しかし、そのようないささか文学的な解釈の試みは、周到に伏線を張られた「仕掛け」がもたらす牛の暴走によって文字通り踏みつぶされ、映画の最後に、とある意外な登場人物の手によってぶっ放される銃の威力によって、見事に瓦解していくだろう。その時、父と息子がともに「子供」としての表情を(いささかわざとらしく)浮かべる瞬間、ジョン・ウェインはヒップであることも「父」であることもやめるのである。名作かはともかく、大作であり、労作でもあることは大いに認められよう。
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