レインウォッチャー

カイロの紫のバラのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

カイロの紫のバラ(1985年製作の映画)
4.5
画面の向こうのあのキャラと触れ合えたら…あるいは、自分があちら側へ行けたら。
映画やアニメ好きなら誰もが一度は頭をよぎったはずの願いを直球で叶えてみた、スウィート&ビター(3:7)なラブコメ…でありつつ、作り手と受け手の両方に対するシンパシーに満ちた厳しくも優しい映画。

仕事はクビ寸前・世の中は不景気・家には横暴な夫、と悪いこと続きなセシリア(M・ファロー)の唯一の楽しみは映画館。
今週の新作『カイロの紫のバラ』に登場する探検家・トムに惚れこみ、暇を見つけては何度も通う。するとある回で、トムと目が合い…彼がスクリーンの外へ飛び出してきた!

まずはセシリアとトムという純真な二人の可愛らしい恋、「もしも映画の人物が現実に居たら」大喜利の数々はコメディ職人W・アレンの面目躍如といったところで、安心の笑い。
しかし、不況や家庭といった《現実》は常にセシリアの周りと取り囲んでいて、彼女の「どこにも行けなさ」を意識させる。ファンタジックなことが起こっていても、今作は常に明るいおバカにはなり切れない哀愁と共にある。画面を統一する秋色カラー、マルーン/オリーブ/アイボリーといったくすんだパレットが、美しくもそのことを投影しているようだ。

トムが逃げ出したことで映画の進行が止まってしまい、プロデューサー等の映画関係者が騒ぎ出すあたりから、いよいよドライブがかかってくる。トムを演じた俳優・ギルが、分身であるトムが外で悪さをしては自身のキャリアに関わる、とトム捕獲に乗り出してくるのだ。

ギルの直面する問題は、映画(に限らず)の作り手が感じるジレンマをよく表していると思う。すなわち、ひとたび作品が世に出れば、文字通り《一人歩き》を始めるということだ。
観客や評論家といった受け手はそれぞれが好き勝手に作品を評価し(まさにこのFilmarksなんてその集合なわけですけれども)、受け手ごとの「トム」が増殖し、時には作り手のまったく意図しなかった価値を良くも悪くも生み出していく。セシリアとトムが恋に落ち、はてはセシリアが現実(特に夫)へ抵抗する強さを獲得したように。

作り手はこれを好きにコントロールすることはできないし、そもそもしようと考えることがナンセンスで滑稽だ、と今作は諭しているように思える。現代ではSNSがあって監督や演者と受け手の距離は近くなっているように見え、メッセージの発信も容易だけれど、そのぶん受け取り方も何倍何乗に増えているため、結局は同じことだ。

これは、ギルがセシリアに惚れて口説く過程にもよく表れている。彼は、誰も理解してくれない自分の価値をホメてくれるセシリアを好きになる。しかし、これは明らかにエゴが見せた一時の錯覚。彼は自らの力でそれを周囲に証明すべきなのに、単に同調してくれるセシリアが魅力的に見えただけなのだ。

中盤からは、そんなトム&ギル&夫&セシリアの珍妙な四角関係ともいえる展開にもなっていくわけだけれど、この展開から今度は受け手側へのメッセージが垣間見える。

セシリアから見たとき、
トムが《夢》で、
夫が《現実》ならば、
ギルは《現実のように見える夢》だといえる。

このギルという層は重要なキーとなる。ここにおいて、フィクションに耽溺する者以外にも、現代の例で言うところのガチ恋勢(アイドルでも水商売でも)なんかも無傷ではいられなくなるだろう。手が届く三次元の現実に見えて、そこには越えられない・越えるべきでない壁がいくつも存在する、ということだ。まさに、タイトルなりながら劇中では一回も描かれなかった『紫のバラ』のように。

このように、作り手・受け手の両方をバッサリ袈裟懸けにして突き放すような意地悪さ・厳しさをもった映画だけれど、それでもわたしは今作を(願望込みで)「優しい映画」だと思いたい。

なぜなら、セシリアはそれでも「映画を観る」からだ。
映画館に行けば(あるいは再生ボタンを押せば)、そこには変わらない姿で待っててくれる映画がある。その不変性こそが映画の本質であり、真の魔法なのだと、W・アレンは自戒も込みで伝えてくれているのではなかろうか。

今作を観たすべてのセシリアへ、ギルへ、さあ次の映画へ行こう、と。