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野のユリのnoteのネタバレレビュー・内容・結末

野のユリ(1963年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

黒人青年のホーマー・スミスはアリゾナの砂漠を気ままに放浪していたが、車の故障で一軒の家にたどり着く。そこには東ドイツからの亡命者である5人の修道女が住んでいた。ホーマーを見たマリア院長は、ホーマーを「神が遣わした者」と信じ込み、この砂漠の荒れ地に教会を建てるのを手伝うように頼みだした…。

主演のシドニー・ポワチエが黒人として初めてオスカーに輝いた作品。
東独の修道院がなぜかアリゾナの荒野の土地を相続し、派遣された五人の尼僧たちが流れ者の黒人青年をつかまえ、そこに教会を建設するまでをほのぼのと描くハートウォーミングなヒューマンドラマの傑作。

旅の資金に不安を感じ、屋根の修理だけを引き受けることにしたホーマーだったが、院長はいっこうに賃金を支払おうとしない。
とりあえず金が貰えるまで、寝床と飯があれば良いとホーマーはそこに居候することになる。
提供される粗末な食事に不満をもらしながらも、シスターたちには礼儀正しく優しく接するホーマー。
尼僧たちに英語を教え、生まれ故郷のゴスペルを教え、次第に打ち解けていく。

驚くべきことに60年代の作品ながら人種差別的な描写がほぼ皆無。
ホーマーの肌の色が黒いことも、シスターたちへの英会話レッスンの中で、「色」として教えるくらいで、神に仕える彼女たちには差別の概念はゼロ。
素朴で明るいホーマーが放浪の旅よりも居心地が良いと修道院に居つき、シスターに受け入れられるのが微笑ましい。
教会の無いシスターたちは町の食堂の前で、同じカソリックでアイルランド人のマーフィー神父とミサを行う。
ホーマーは車でシスターを送り届け、ミサの間に食堂で豪勢な飯を食べようとするが、食堂の主人ホアンも地域住民もメキシコ系移民で黒人への差別意識はゼロだ。
差別する白人が出てこないのが、心地良い交流を紡いでいくのだ。

教会が無い信者を不憫に思うマリア院長は、ホーマーに屋根の次に教会の建設にとりかかるように迫る。
ホーマーは純真だが建築費用を稼ぐあてもないシスターたちを不憫に思い、嫌々ながらも彼女たちに協力するようになっていく。

だが、町の建設会社でも働き、食糧や資材を手に入れてもマリア院長は「主の恵みだ」と神に感謝してもホーマーに感謝をしない。
建築仕事に自信のあるホーマーはプライドを刺激され、教会の建設に執念を燃やし始める。

初めホーマーは自分の作品として独りで建設することにこだわり、町の人々の協力を断ったが、考えを改め、町の人々と共に教会の建設を進めるようになる。
「勝手に運んだだけだ」とホアンが運んだレンガをホーマーが受け取るや、それを手伝う許可が出たとばかりに町の人々が総出で建設に取り掛かる。
「お前は休め」とばかりに仕事をホーマーから奪っていくのが笑える。
さらに完成図を知らぬまま適当に立てていく町の人々を見かねたホーマーが、的確な指示を出し、現場監督のボスに祭り上げられるのも笑える。

マリア院長と4人のシスターたちは、各方面に手紙を出し、寄付金を募り、地元の建設会社に資材の提供を頼み込む。
彼女たちの熱意におされた人々は建設資材を寄付していく。
紆余曲折を経て、教会は奇跡的に完成する。
町の人たちと完成を祝う宴に、人種の壁などない。
酒を飲み、踊り明かすホーマーたちを見て、呆れるマリア院長。
翌日、シスターたちの手で飾られていく教会。
マーフィー神父に感謝の意を述べられ、照れるマリア院長を見て、ホーマーはその夜カマをかける。
ワザと発音の違う「ありがとう」を発したホーマーに対して、マリアは「違うでしょ」と訂正し、ホーマーに「ありがとう」と言う。
ホーマーはマリアから感謝の言葉が聞きたかったのだ。
満足したホーマーは、最初のミサを見ることもなく、その夜のうちにまた車で放浪の旅に戻ってゆくのだった…。

本作の見所は、何と言っても自由奔放で若々しいポワチエのコメディチックな演技。
そして厳格なマリア院長のキャラクターの対比だ。
人の良いホーマーは熱心に働くのだが、院長はその働きに感謝しないどころか逆に厳しい態度を取り続ける。
神への奉仕だから当然だと言い放つのだ。
これだけ一所懸命尽くしているのに何故こんな仕打ちを受けなければならないのか?と、ホーマーは当然反抗していく。

一見、相反する凸凹コンビに見えるが、当時の世情を考えると、この2人の関係には自由資本主義と共産主義の対立と見ることが出来る。
流れ者ホーマーはメキシコ人と陽気に酒を飲みながら自分はアメリカ人だと豪語する。
一方、シスターらは東ドイツから亡命してきたという過去を背負い、極めて禁欲的な暮らしを送っている。
ホーマーの自由さと労働に対価を求める姿には資本主義を、シスターらが宗教的な「厳しい戒律」に仕え、皆の幸福のために奉仕する姿に共産主義が感じ取れ、その対立に当時の東西冷戦を読み取ることができる。

ホーマーと院長の対立と融和に焦点を当てたシンプルなヒューマンドラマだが、お互いが傲慢に命令する立場となった時、「ヒトラーのようだ」と引き合いに出すあたりは、信念の危うさも読み取ることができる。

また、ホーマーの人間的背景は具体的に描かれていないが、ある程度は想像できる。
貧しい宿無しの黒人で夢を持てずにいるあたり、他の土地では差別を受け、世間に打ちひしがれた経験の持ち主であることは容易に想像できる。

彼はさすらいの旅に出て、偶然にも安らげる修道院に辿り着いた。
そこでマリア院長、つまり厳しくもお節介で、自分の身を案じてくれる母親の温もりに巡り合う。
孤児が母性を獲得していくドラマにもなっているのだ。
度々衝突を繰り返すことで二人は深い絆で結ばれていく。
一見、苦い別れのようなラストだが、教会の建設で自分に自信をつけたホーマーは旅立って行くが、きっと何かあれば家と呼べる存在の修道院に戻ってくるのだろうとラストは暗示させる。
シスターらもホーマーに依存するのではなく、教会に集まった人々と共に暮らしていけるだろう。
それぞれの自立を讃えるハッピーエンディングなのだと個人的には思う。

流れ者がたどり着いた土地でトラブルを解決するのは西部劇で良く見られる骨子だが、そのトラブルも解決方法も暴力的なものが一切ない。
宗教的な要素が濃いのが難点ではあるが、シスターが西欧的な讃美歌だけでなく、ゴスペルを受け入れるところが、神の下では人類皆兄弟だと思わせて平和的。

コミカルな異文化交流で笑わせながらも、奥深さも併せ持った極めてクオリティの高いハートウォーミングなドラマである。
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