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女と味噌汁のotomisanのレビュー・感想・評価

女と味噌汁(1968年製作の映画)
4.0
 頼りない川崎敬三の始末を解決金1万円の折半で決着する女感覚がリアルに思えるのは第三者で男だからだろうか。敬三の値段が一人5千円也、月3万なら生活費5日分相当で . . . だんだんイヤになってきた。いやいや、そこに喧嘩で始まった女二人の手打ちの流儀というのとは違う、ある種の同輩としてのと云おうか、情緒のようなのを覚えるわけだ。ここが監督の示したいところの始めだろう。

 そんな手毬姐さんには暮らしの極意が母親譲りでつまっていそうなのに新宿の奥座敷で左褄とはどんな心境からだろう。「非売品」という札が下がる今っぽさが、芸は売っても身は売らない気概を黙って通したはずの花柳界の変化を示している。
 さて、それならしばらく昔の話なら陰に馴染みの男がいて、傍目に冷たい素振りながらてな具合で咄にもなったろうに。こんにちといってもすでに半世紀前、手毬姐さんなぜか単身、屋台の「味噌汁や」ビジネスに舵を切るという。そんな事情が薄々知れる男とのわけありや無しやが90分でざっと4人分と腹違いの弟一人+朋輩小桃ほかのなるやならざるやてんこ盛りである。'68年的花柳界事情とは高速で涙を乾かす疾風の時代なのだ。同時代を生きる車寅次郎とは周回軌道の反対側的対照性で女もつらいや。

 冒頭の敬三不始末で露わになったのが女一般相身互いなところなら、本命のはずの目玉先生は女の二極を示す。というても女も家名と一族を背負いだすともう女じゃあない。もっとも、これこそ長年託って来た厄介に違いない。泣いて別れて走り出す味噌汁屋台ならやっぱり女はつらい。
 だから古巣の大川端で何かが癒えるよすがもあらぬかと訪ねれば、かみそり堤防のコンクリもまだ新鮮で興が冷めるその通り、駆け足で現れては消えてゆく男たちの縁の薄さと隠れたワケが薄情というのでなく、モノ欲しいだけというのでもなく、時宜が叶っていればあるいはとばかり薄ら思わせる。そんな辺り、川越しの景色のもう何もない頼りなさが、そんなものさと笑うようである。
 それをいうなら、新宿の奥座敷だって風前の灯火。時間空間の高度利用がお安くない芸者遊びもなにも呑み込んでゆく。川端やなぎに隠れてふたりの逢瀬を綿々と綴るような情緒は最早無縁な時代の、消耗品にはならない女のあるいは一代限りの始まりらしい、情緒を押し隠した物語として忘れられそうにない。
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