Jeffrey

家族の肖像のJeffreyのレビュー・感想・評価

家族の肖像(1974年製作の映画)
4.8
「家族の肖像」

〜最初に一言、壁画的叙事詩映画の傑作「山猫」を世に送り、美を描いた「ベニスに死す」、そしてその境で心臓病で倒れた彼が自分の人生が既に終末に近づいていることを身に染みて描いた家族にまつわる本作は、室内劇映画の中でも上位に来るほど好きな作品である。正に非の打ち所のないリズムの格調の映像性を生み出した名画である〜

冒頭、ローマ市の中心地の豪邸に住む教授。18世紀の英国の画家たちが描いた上流階級の家族の団欒図、コレクション、孤独な生活、訪問者、取引、階上の住人、関係、計画、九官鳥、保護、回復、刑事、手紙、晩餐、亀裂、独白。今、父と息子の関係性へ…本作は日本でとりわけ大ヒットし、ブルーリボン賞や日本アカデミー賞最優秀外国語映画賞を始め、様々な賞を受賞しヴィスコンティブームに火をつけた傑作で、ルキノ・ヴィスコンティが1974年に仏、伊で合作した傑作中の傑作で、この度撮影時にマンガーノの衣装を提供したフェンディの資金援助で完成した美しい2K修復版BDにて再鑑賞したが素晴らしいの一言だ。原案(脚本)はエンリコ・メディオーリとスーゾ・チェッキ・ダミーコと監督自身である。少なからずヴィスコンティの映画を見ると非常に美に対して厳しい目を持っているなと思っていたが、ここで妖艶と言う言葉を男性に使う事はあまりないことだが、あえて使うならこの妖艶な美貌を持つヘルムート・バーガーが本作に出た時点で、ヴィスコンティの美は頂点に達するだろう。この映画何が凄いって、監督の作品の中でもずば抜けて傑作の出演者が揃いも揃って一挙に集っていることだ。

「山猫」のバート・ランカスターを始め、「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムート・バーガー、「ベニスに死す」のシルヴァーナ・マンガーノとこの3人をーつの画面で見てる…この幸せわかるだろうか、とんでもないことが歴史的に起こっていることを…。この3人が揃っただけで最早、芝居合戦、喰うか食われるか、壮絶な演技の火花が炸裂する事は言うまでもない。私が好きな室内劇作品の中でも上位に来るほど好きな映画である。まさにヴィスコンティの集大成と言える大傑作だ。ちなみに、家族の肖像(カンバセーション・ピース)とは、ランカスターの主人公が収集している絵画の連作の題名であり、家族の団欒を意味する成語である。これは英語読みで、イタリア語の題名だと"室内の家族グループ"になっている。ちなみにフランス語題名は"暴力と情熱"である。


そもそも主人公の教授が蒐集しているカンバセーション・ピースとは、19世紀の英国で盛んに描かれた家族の団欒を描いたー連の肖像画で、貴族や上流家庭の家族たち、その子供たちや召使いや犬も一緒に描き込まれているもので、画の中の人々は、あまりにも美しくて気品高く、魅力的でありすぎて、動かぬ画の裏に、思わず激しい愛憎と淫蕩のドラマを想像させたと絶賛されていた。タイトルに肖像とつくほどだから、やはり最も美しいシークエンスの1つにラストの5人の主要人物が食卓を囲んで一堂に会する場面は圧倒的である。知識人の物語だが、時代と調和して生きたことがないため、今日の世代と激しく衝突してしまう一見かわいそうにも見える主人公のとある部分も感じ取れる。もともとダイアローグよりかはモノローグの方が好きなのだが、この室内劇(対話劇)の悲劇に突入していくまでの過程と、突入した後の過程が圧倒的に好きで、家族の団欒を悲劇的にこうまでして描いたヴィスコンティに拍手喝采を贈りたいほどだ。

歳をとった人間=老人と歳をとっていない人間=若者に対して、自分の子供のようなつもりで触れ合いを持とうとしたところで、理解し合えるわけがないことが映画から伝わってくる。もっと詳しく話したいが、ネタバレになってしまうためあまり言えないのが心苦しい。これって、晩年歳をとったヴィスコンティが「山猫」以降、若者に分類されているアラン・ドロンとの決別を少なからず想いとして入れたのかなと勝手に思っているが、真相はどうなのだろうか。あの作品以降仲違いしてしまった2人であるから…。今思えば、「揺れる大地」を始め、壮大な貴族家族を描いた「山猫」、「地獄に堕ちた勇者ども」、そして本作とその他多くのヴィスコンティの作風に見受けられる家族の解体と言うのは、彼にとっての鎮魂歌のようなものなのだなとつくづく思った。やはり「ベニスに死す」の発表に引き続いて制作に入った「ルートヴィヒ」の撮影中に心臓病に倒れ、瀕死の体調で本作を完成させた彼が明瞭に死を意識したのがすごくわかる映画である。

それこそ去年見事にパルムドールを受賞したポン・ジュノ監督の「パラサイト半 地下の家族」同様に、この作品もローマの豪邸で、18世紀英国の画家たちの手による上流階級の家族の団欒の画に取り囲まれて、静かに生活を送る孤独な元科学者が、突然現代ヨーロッパの縮図であるかのような不思議な家族の一群に侵入(寄生)されて、悲劇的な死を遂げる映画としては似たようなものを感じる。まぁパラサイトと言う意味だけでは…。それに、魔性の男と言う言葉はないが、もし仮にあったとしたら、ぜひともそれを使いたい美青年コンラッドに寄せる教授の想いなどは、ヴィスコンティの自伝色の濃いところだと感じる。彼のインタビューを聞くと、決して何から何まで自伝的と言うことではないと一応言っているが、私からすれば結構そう感じてしまう。しかも、あまり言いたくはないが、この作品てヴィスコンティによるヨーロッパそのものの文明の死を伝えているかのようにも感じてならない。さて長い前置きはこの辺にして、物語を説明したいと思う。

さて、物語はローマ市の中心地の豪邸に住む教授は、家族の肖像と呼ばれる、18世紀の英国の画家たちが描いた上流階級の家族の団欒図のコレクションに囲まれて、孤独な生活を送っている。新しいコレクションを入手すると、絵の中の家族たちとなごやかな団欒を楽しんだり、ときにはささやかな諍いを想像してみたりするうちに、時が流れていくのである。ある冬の日、その静かな生活に、不思議な家族のー群が荒々しく侵入する。ビアンカ・ブルモンテ夫人とその娘リエッタ、婚約者ステファノ・ビアンカの情夫らしい美青年コンラッドの4人である。邸の2階の主人となった若者たちの存在は、教授の閑静な生活を一変させてしまう。最初の衝突はコンラッドとの間に起こった。粗暴で身勝手で意固地なこの美青年は、ビアンカが2階を借りたのではなく、自分の名義で買い取ったと信じて改造工事をさせ、そのために1階の教授の住居は天井も壁も水浸しになってしまった。しかし、冷静になって話し込むと、コンラッドは、モーツァルトを愛し、美術の造詣もふかく、家族の肖像画の画家の知識もあって、ビアンカとの不倫の関係から発散するときのような魅力とは別な純粋さで教授の心をとらえる。

68年に学生運動に深入りする以前は美術史を専攻していたのだと言う。衝突は続いて翌朝、パリからの夜行便飛行機で飛んでいたビアンカとの間に起こるが、教授に前夜約束した家族の肖像画の写真を持ち帰ってきたコンラッドのおかげで収拾がついた…が、和解の印にと、教授が招待したその夜の晩餐には、4人はついに現れなかった。彼らは友人の新しいヨットを見に行って、そのまま地中海旅行に出かけたのである。1ヵ月後、ヨット旅行から帰って、再び教授の家の2階の住人となったコンラッドは、深夜、2人の右翼青年に急襲を受けて傷を負う。教授は彼を書斎の奥の隠し部屋(それは教授の母がゲリラやユダヤ人をかくまうためにこしらえたものだった)に匿い介抱してやる。警察も医者も呼ぶなと言うコンラッドは、事件そのものの発覚よりも、事件がビアンカの夫で右翼実業家の大立物フルモンティに警察から伝わることを恐れているようだった。

不安を訴え、助言を求めるコンラッドを、教授は父親のように励ます事しかできなかった。その晩、幼い頃の母の思い出や別れた妻の記憶から教授を呼び起こすように、若者3人が麻薬の煙が立ち込める中をカンツォーネに合わせて踊っている。リエッタは教授に向かって、詩人オーデンの言葉で美しきものは追い求めよ、少女である少年であれ抱擁せよ…性の生命を墓に求め得ぬゆえと語りかける。コンラッドはミュンヘンに出発したが、国境で不審尋問に会い、身元引き受け人として教授の名をあげた。警察の訊問に応じた教授は、彼の過去の調書が膨大な厚さであることに驚く。しかしコンラッドはすぐ釈放された。帰還したコンラッドを迎えての晩餐は、教授を中心にビアンカとリエッタ、ステファノの5人があたかも一幅の家族の肖像と化したかのような、はじめての、そして最後の晩餐であった。ここで、彼はめいめい最も残酷な真実をあらわにつき付き合い、家族の団欒はそのまま悲劇に突入していく。

ビアンカは、夫のフルモンティが、他の男なら構わないが、コンラッドとは縁を切れ、さもなくば離婚だ、そしてコンラッドの始末は自分がつけると言って、急に今夜イタリアを離れたと語った。政界の事情に詳しいステファノには、それが何を意味しているかがわかるが、あまりにも次元の違う古風な文明論を掲げる教授には、自体がわからない。密告者、裏切り者、と罵倒しあい、殴り合うステファノとコンラッドの間に分け入る教授に、傷ついて去るコンラッドを止める力はもう無い。コンラッドは教授を父と呼び、永遠の別れを告げる手紙を残して爆死する。この事件に衝撃を受けて自らも死の床についた教授の耳に、2階から、何者とも知らない足音が聞こえてくる…とがっつり説明するとこんな感じで、見事日本のキネマ旬報ベストテン第1位を獲得し、昭和53年度文化庁芸術祭大賞受賞した傑作である。

いゃ〜、バーガー演じるコンラッドの急進左派崩れの青年にもかかわらず、右翼の大実業家の夫人であるビアンカの愛人になっている点も映画的に面白いし、クラシック音楽や絵に対してオーソドックスな教養と理解力を持っているのもなかなかである。しかもロック音楽のボリュームいっぱいに響かせて麻薬に酔い、乱交パーティーする画をヴィスコンティの作風で見れるのも奇跡的だ。本作に限っては非の打ち所がないリズムの拡張の映像性をもたらしたことに成功していて素晴らしい。そういえば78年度の芸術祭賞を決める外国語映画でも審査会で珍しいことが起きたと荻昌弘氏が言っていたことを思い出した。確か、当時の会議で、各審査員が対象候補作品を挙げてみようと言うことで、それぞれメモを用意して広げたところ、全員例外なく「家族の肖像」を書いていたとの事だ(記憶が正しければ)。

さて、ここからは私が印象に残ったシーンをいくつか挙げたいと思う。まず冒頭にフルモンティの奥さんが 邸に来て階段を上り、手に持っていたタバコをポイ捨てするのだが、教授が靴で火を消すなんてことない場面の不穏な空気感がたまらない。ここから後に起こる悲劇的な事件を感じさせる。その後も一方的に開かずの扉を開けたり、ずうずうしい態度が見受けられる。にしても、バーガーが襲われて血だらけになるときのビジュアル(フェイス)すげえハンサム。教授が母性本能的なものを表して、看病する隠し部屋のシーンは印象的だ。あとドレスのシーンでスローモーションでの演出をしているのもよかった。そんで、バーガーがタバコを吸いながら Iva ZanicchiのTestarda Io, La MIA Solitudine流れる中、裸体で女と絡む(男2人女1人)シーンで、教授がそれを見ている場面のエロチックなシーンは記憶に残る。

それと物語が始まって少し経った頃に、あの家族が2階を占拠して、ものすごい轟音を鳴り響かせながら亀裂の入った天井を見た家政婦が慌てふためく狼狽シーンはすごかった。まさに修復不能の感覚を強烈なイメージでとらえた一瞬だった。それにあの破壊尽くされた壁も笑うほどズタズタに破壊されていた。それとあのちょこまかと煩いリエッタが凄く自己中心主義で、ひたすら無防備な役を演じていて終始目に余った。そんで婚約者のステファノはどっからどう見てもファッションセンスからしてヒッピー文化の洗礼を受けている。精神状態もきっとそうだろう。どう見たって自由主義者だった。しかも資本家の息子であり、労働者を軽蔑している感じが鼻についた。しかし案外ハンサム(笑)。

それにしたってこの作品は案外きつい映画だなと思うのである。基本的に今は亡き家族の追憶を楽しみつつ隠居生活をしていたところに厄介者が土足で入ってきて、自分宅の2階を完璧なまでに破壊され1階とはまるで見違えるほどのモダンアートに変形させられてしまい、改造された部屋は、教授のセンスとはまるで違うのである。しかしながらそのシーンは映画的には非常に素晴らしいモダンアートが作り出されていて良かった。1階は本棚など茶色系の部屋だが、2階は白を基調にしたスタイリッシュな部屋になっている。それにあれはバルコニーだろうか…家の外から眺めるバロック風建築の風景が息を呑むほど美しく、脳裏に焼きつく。それに、自分を取り巻く家族の肖像を不本意ながら実現してしまうのも何とも言えない。別の形ではあるが夢想に過ぎなかった事柄が現実に起きたのである。それが最後の晩餐である。しかしながらコンラッドの自殺によってピリオドが打たれてしまう。それがまた冒頭の心電図の画とつながってしまい、なんとも衝撃的な余韻を残す。


この老教授のセリフがすごい印象的で、ヴィスコンティは初期作と遺作の「イノセント」迄の映画過程の中で、確実に雰囲気が違う作品に移り変わっている。ほぼ晩年の作品は自分を映しているかのようだ。クライマックスのベッドの上で教授が泣き、上から足音が聞こえる帰結の仕方からの静止画は余韻が残る。何よりも教授が暮らす室内のみで構成し、彼の内面の穏やかな変化とともに外側で起こる様々な事柄の対比を描き、生のリズムに寄り添う形で描かれていて、ヴィスコンティ独特のネオレアリズモが微塵も見えずまた、彼のフィルモグラフィーの中でも最も内証的な作風とも言えるかもしれない。結局のところラストの病院のシーンと言うのは、彼が病気で倒れてしまってスイスの病院に2ヶ月入院していたのと重ねてているような感じがする。要するに彼を襲う死の恐怖が形象化されている場面である。
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