しゃび

アルファヴィルのしゃびのレビュー・感想・評価

アルファヴィル(1965年製作の映画)
4.0
ゴダール的ディストピア映画。
感情や言葉、思想を奪われた管理社会アルファヴィルを舞台に、シークレットエージェントのレミーコーションが愛を振りかざす。

設定はありふれている。
要は『時計仕掛けのオレンジ』のルドヴィコ療法のようなものだ。
だが、作者はゴダールである。ゴダールがただのありふれた映画を撮る訳がない。

まずもって、SF映画の設定を使っておきながら、全編パリのロケで撮られている。外の街並みは普通にパリの街並みであり、ホテルはパリのグランドホテルである。でも、それがパリではなくα都市だと言われて納得させられる映像に仕上がっている。
そして、α60のボイスオーバーの音声。一度聞くと、しばらく頭にこびりつく。あれを聞いているだけで自分までα60に色々なものを奪われそうな気すらしてくる。
有名な処刑台のシーンも圧巻そのもの。もうまともにシンクロは見られない。

こうして見るもののイメージはことごとく組み替えられていく。


ゴダールは映画史が築いた既存の映画文法も、それこそことごとく解体した最重要人物であるが、同時におそらくとても恥ずかしがり屋な映画監督でもあると思う。
例えばある部屋での一幕を撮る時、全体の空間→アップ(構図)→アップ(逆構図)のような意識誘導的なショットなど恥ずかしくて使えない。
だからといって、ジム・ジャームッシュのようにクローズアップ自体を避けたり、相米慎二のように遥か遠くからの長回しにこだわる訳でもない。
ゴダールの場合、ゾッとするほど唐突にアップを出現させるのである。そこには意識誘導もサスペンス効果も何もない。単なるクローズアップである。
多くの映画ファンが、このようなゴダール独特のひねくれた映画作法の数々の虜に、いつの間にかさせられている。ただ、影響力が強すぎて後の映画監督がこれをやると、見透かされて恥ずかしい思いをするのもまた事実である。

結局今回もゴダールに踊らされるのだ。こんなにも叙情を廃した映画にも関わらず多いに涙させられるのだ。


ネタバレ含む↓

「ナターシャとは過去の名前だ。」
「でも人生には現在しかないわ。過去に生きる人も、未来に生きる人もいない。」

この社会では、過去も未来も奪われている(未来はα60が演算を行うことで「安全」が担保されている)。

レミーコーションはしつこいくらいに写真を撮る。それも急に。でも撮られた人間は誰も嫌な顔をしない。不思議な表情を浮かべる程度である。
写真は撮った瞬間に過去の記録となる。
過去を奪われた人々にとって、写真を撮られる行為はピンとこないのだろう。

一方で映画もまた過去を記録する装置である。
過去を記録する映画という装置の中で、過去を記録する写真を撮るという多重構造を、過去を失ったα都市を舞台に行うという仕掛けも大変興味深い。
しゃび

しゃび