青雨

マトリックス レボリューションズの青雨のレビュー・感想・評価

4.0
エージェントとしての属性を離れ、無限に増殖していくスミスの存在こそが、第3作『マトリックス レボリューションズ』のコメディ性をよく表しているように思う。

映画の技法的なことはさておき、ラストの空中戦は鳥山明による『ドラゴンボール』のようになっており、同作に馴染んだ感覚からすれば既視感に近い印象を伴いながらも、水滴が膨張する描写などは今観ても美しく感じる。

いっぽう、「ザイオン」の描写にはほとんど魅力がなく、その魅力のなさから、AIに支配された「マトリックス」世界のほうがよほど良いのではないかと、第1作で裏切ったサイファーのようにさえ思う。もしかすると、作り手のこの姉妹もまた、そのように思っていたのではないか。

また、語り手であるウォシャウスキー姉妹の、語りのなかに発熱したものを追ってみるならば、アップデート・プログラムである救世主という存在から逸脱したネオに対して、反物質のように増殖するスミスの存在をやはり面白く感じる。逸脱してみせたのはネオであっても、越境したのはスミスということになる。

ここに至って、スミスの感情は喜怒哀楽によるものではなく、ほとんど存在論的な問いかけになっていく。それは、フランスの画家ポール・ゴーギャン(1848 - 1903年)の言葉として有名な、「我々はどこから来たのか? 我々は何者なのか? 我々はどこへ行くのか?」に近く、その答えを彼はネオに求める。

しかし、スミスに宿る哀しみは、テーゼに対するアンチ・テーゼや、光に対する影のようなものであり、そこに答えなどあるはずもないことにこそ由来してもいる。またそれは、何かを越境しようとしているウォシャウスキー姉妹自身の哀しみでもあったのかもしれない。

男性性(アーキテクト/設計者)と女性性(オラクル/預言者)によって、混沌のうちにバランスされている世界。心(マトリックス)と体(ザイオン)。そこから逸脱しようとする救世主と、越境しようとする破壊者。優れた語り手であるほどに、おそらく彼女たち自身のうちに、こうした要素が濃密に存在するのだろうと思う。

彼女たちは、その扉の前に立った。しかし、その扉を開けたとき、目の前に現れたのは、元の世界が反転した鏡像のような世界だったのではないか。約20年ぶりに『マトリックス』3部作を観返して、僕に感じられたのはそうした風景だった。

また、おそらく名作と呼ばれる作品にはすべて、そうした語り手の向こう側に存在する沃野(よくや)のような場所が、暗示されているようにも思う。
青雨

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