のわ

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qののわのレビュー・感想・評価

5.0
映画と現実の線引きすら覆そうとしたのか

エヴァンゲリオン新劇場版シリーズ3作目にして、最難関である本作は映画であって映画では無い。現実とフィクションを織り交ぜる映画は数あれど、その中間を描き、映画の世界の確かな手触りを感じさせる本作はたしかに難しい。2024年である今も尚、我々は本作に追いつけずにいる。本作を理解しようとするのは土台無理な話であると思う。それは、監督である庵野監督は物語を観客に伝えるものではなく、空気感を伝える次回作の担い手であったと思う。前作、前々作に比べて、本作は全く異質だった。

それは、主人公の不在や月日を感じさせながらも、その説明を碇シンジとともに、式波アスカの口から聞くことになる。さらに、ミサトとの距離が遠くなることで、碇シンジと世界の繋ぎが極端に少なくなり、「碇シンジ」と「外の世界」という構図が目立った。碇シンジを取り巻く大人もしくは少年少女の心を持つ者たちは碇シンジの監視者的側面を持っている。そうした状況で碇シンジが知っている世界の断片を頼りにシナリオをなぞっていく。だからこそ、観客は碇シンジと感覚を共有し、唯一の手がかりである会話を追っていく。そんな中で僕が愛しているのは、渚カヲルと碇シンジの連弾だ。あの2人だけの世界で他者を思いやり補い合うようなピアノの旋律は本当に素敵だった。友情とは表面的な付き合いを指すのではなく、精神的な痛みまでも共有している。彼らはきっとそんな2人だった。

僕らが他者と関わっていく中で会話は必ず存在する。

 会話とは説明するという側面も持つが、その他にも他者と距離を縮めたり、推し量ったりする側面も合わせて持つ。僕らが多く用いるのは恐らく、後者であろう。そして、本作が用いたのも後者であったと思う。必ずしも言葉を用いたものが、会話ではなく、カヲルとの連弾も会話と言える。だからこそ、本作を説明不足というのは当然だと思う。しかし、本作が説明ばかりの会話に溢れていたのなら、そんなつまらないことは無いとも思う。なぜなら、フィクションは寓話であって、絵空事では無いから、14年振りに目覚めて、戦争状態の世界を事細かに説明して、最善の選択をするなんてリアリティーがないし、キャラクターのメタ的な発言は許容しがたい。本作の核は碇シンジとのシンクロ率を意図的に高めたことだと思う。観賞後訳の分からない世界に降り立ったような浮遊感を手にしたのなら、紛れもなく本作を感覚的に手にしている。
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