ふみ

もののけ姫のふみのネタバレレビュー・内容・結末

もののけ姫(1997年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

感想をまとめようまとめようと思ったまま、まとまる気配がないので、断片的なままだけどとりあえずどこかへ消えてしまう前に文字を残そうと思う。文章にはなっていない。

自分用メモです。長い。

ものすごく映画観たーーーーいとなって観てきた。
最近コロナで映画は我慢してたのだけど、座席も間隔あいてるし運営してるってことは行っていいんだよな、、と思い。映画館が潰れて映画観られなくなったら嫌だし……シネマイレージカード作ったし……
何より、ジブリの名作を映画館で見られる貴重な機会を逃したくなかった。(あとナウシカも映画館で観たい、観る予定)

もののけ姫は1997年、自分が6歳のときの作品。
ジブリは、高校生の頃まではそんなに好きではなくて(でも周りによく好きそうと言われる)、しかしふと、それってちゃんと全部見た上じゃないよな、見てから判断しなくては?と思い、大学生の頃にジブリの有名どころで未視聴のものを全部見た。
もののけ姫は、そのときに見た。自分の記録を見たら、9年前2011年の7月(9日)だった。なお、当時(コクリコ坂公開くらいの頃)歴代ジブリを見た結果、ナウシカ、火垂るの墓、紅の豚、ぽんぽこ、もののけ姫、千と千尋あたりが特に好きと感じた記憶がある。

2011年に見たとき「結構グロい」と感じたこと、アシタカの行動について「他の女からもらったものを別の女にあげちゃうのかよ!?」と思ったことは覚えていた。しかしストーリーは忘れていた……
(当時の感想を読み返したらもうちょっとは考えた感想もあった。のちに触れる)

2020年、観終わった直後、直感で「大きい」と感じた。何が?というと、映画としての存在が?なのかな……。あ、大作ってことか?とにかく「大きい」という形容詞がぱっと頭に浮かんだ。こんな、大きい映画が90年代にもう存在していて、それ以降の映画はこれを超えられているのか……?と思った。すごかった。

すごいと感じた点はいくつかあるけど、大きくは二つ?で、一つ目、感じたのは音について。
音がすごい。
まずタイトルの「もののけ姫」という字が出たときに、泣いてしまった。画面に大きく出たもののけ姫という字、バックにも壮大な音楽。映画館で観るチャンスなどないかもしれなかった作品を、映画館でこれから観るんだ。と実感しての涙……
それから、最初の祟り神を仕留めるときのヴァイオリン?チェロ?わかんないけど弦楽器の音の迫力がすごかった。緊迫感。
弓矢のヒュンという音もリアルですごいと思ったら、たしかテロップに北区弓道連盟と出てたから、実際の弓の音なんだと思った。
また、無音も印象的。
ししがみさまの無音、からのしずくが落ちる音とか。無音からの、いのししがドドドと走るシーンとか。無音のシーンは思わずこちらも息を潜めてしまうような、引き込まれる使い方だなと思った。

そしてすごいなと思った点二つ目は、テーマが色々詰まってそうなのに、説明っぽくなく、無駄がなく、まとまっていること。
一つ一つのシーン、一言一言に込められているから、まとまってるのかな。と思った。

正直、最近日本のアニメ映画を見ていて「言葉で説明しすぎだな」と思うこともある。ここは顔の絵だけで、心中の台詞がなくても考えていることはわかるのに、とか。(でもなにかの映画監督さんが「説明しないとわからない層がいるから描く」と言ってるのもどっかで見かけて、ちょっと悲しくなってしまった。読み取れる人間になりたい。。)
でも、もののけ姫は説明っぽくなくて、、シンプルだなと思った。「無理に詰め込まれてる感」もない。

テーマに関しては、種族や差別、共生、憎しみの連鎖……などかなと思った(まだまだありそう)。
特に共生については、映画を観たあと色々考えていたら夜更かししてしまった。

以下、共生について(数日に渡ったメモを切り貼りしたから断片的。。)

アシタカの「わからぬ。しかし共に生きることはできる」で涙した。
これが全てなのかなと思った。

最後はサンとアシタカは、森とたたらばで場所はバラバラに生きるけど、それでも「共に生きる」というエンド。
一緒にいることが共生ではないもんな、と思う。
違う存在で、ぶつかってしまうのなら、適度な距離で、離れることも大事。と思う。
エウレカセブンも思い出した。(エウレカセブンもテーマに「共生」がある神アニメです。全人類見てほしい。)

共生って難しいよなって。
違いを認め、受け入れて、過去の過ちを許しあって、生きていくこと……、、きっと言葉にするよりずっと難しい。
でも人もある意味単純だから「助けてくれたから、優しくしてくれたから力になりたい、返したい」という気持ちは誰しも湧くのだと思う。
逆に「(自分や)仲間が傷つけられたから、恨む」という負の感情も。むしろ争いは、辿れば大体これが理由ではないのだろうか。
わんこを助けようとするアシタカに、わんこを忌み嫌っていたはずの男たちが手を貸してくれるのも、「アシタカは助けてくれた」「この人(アシタカ)のすることは、手助けしたい」という気持ちからだろう。
あの山犬を助けるシーンだけでも、込められているなーと思った。
忌み嫌っている山犬だけど、アシタカが助けたいのなら、助けようと。でも、助けた直後に「うわぁ」と山犬にはビビって離れる、あのシーン。
自分と違う存在に対して「怖い」という気持ちは拭えなくても、信じた人が助けたいのなら、力を貸したいと思うことができる、という、「差別」「共生」というテーマにおける、救いの道だと私は感じた。
アシタカのような人間が増えれば、他者への理解への一歩である。。というか。
そうやって、「括り」を超えて、輪がじわじわと広がっていったら、いいなと。。(そんな単純ではないが。。)

人間同士でもすぐ、現代のSNSでは男性が〜女性が〜と論争が起こっている。
私は男性だったことはなく前世の記憶もないし体は女性で自分のことを女性と思って女性として生きた人生のみなので、男性の気持ちは一生分からないと思う。だって経験してないから。
ただ男性本人から聞いた話や、創作物のイメージから想像するしかない。

同じ生物、人間、日本人、年齢、女、であっても、友達の気持ちを100%はわからないと思う。というか人と人は理解し合えないと私は思っている(悲しいと思うけど)だって本人じゃないんだもん、本人と同じ経験してないもん。なんなら同じ経験をしてても、感じることは人それぞれだと思う。言葉で説明しても、同じ意味として捉えてないかもしれない。
私は少年の気持ちは一生わからないし、少女の気持ちだってもう過去なので、記憶が都合良くすり替えられてるかもしれない。もう少女の気持ちはわからない。
「生物、人間、日本人、この年齢、女」であることは分かりやすい括りだから先程例に挙げたけど、当たり前だが細かくわければもっと違う。一人一人違う。
同じ家庭で育った弟だって私と全く違う人間に育っているし。
森と人間、そりゃ分かり合えなくて当たり前でもあると思う。
でも想像すること、寄り添うことはできると思う。
だから私はなるべくいろんな人から話を聞いて、想像できる人間になりたい。

分かり合えないからこそ、いろんな人と触れ合いいろんな話を聞いて、その立場を想像し、傷つけずに生きていく方法を見つけられたらいいなと思う(理想論ではあるけど、、)。

何気ない台詞の「生きてりゃなんとかなる」も心に残った。
生きてさえいれば一からやり直せる。しんだらおしまい。ひとまずなんでもいいから、「生きる」ことの大切さ、を言われた気がした。

私は、受験や就活のとき消えたいな〜と思うことはあったけど、恵まれているという自覚もあり、生きたくても生きられない人がいる以上は生きないと、という思いがずっとあった。
私のような程度で、消えたいなんて思っていては贅沢だというか。あと、私ごときでもしんだら何かしら迷惑がかかるので、迷惑はかけたくない。
いま生きているんだから、生きていようと思う(日本語不自由か?)。
あ、今は普通に、見たい映画やアニメも読みたい本もやりたいゲームも会いたい人も沢山ある・いるので、5世紀くらい生きたいと思ってる。

サンはラストでも「人間を許すことはできない」と言っていて
そう簡単に憎しみは消えないという現実を描いていると思う。
でも一方でその言葉の前に「アシタカは好きだ、でも」と言っていて、人間の中でも好きな存在ができたということが、自分と異なる存在との共生や、他人への理解への一歩なのだろうな、と感じた。
そうやって「人間」「動物」とくくらないで、一人一人を見て、好きになっていくこと。それを積み重ねていくしか、ないと思った。
これはあらゆる差別について、言えることじゃないかなあ、、と。

人間は「自分と違うもの」を拒絶し恐れてしまうと思う。
私自身、もっと身近な例でいえばたとえば、高校生の頃までは、デキ婚とか喫煙とかそういうことに否定的な考えを持っていた。
でも大学生以降、外に飛び出して、いろんな人と知り合って、デキ婚でもタバコを吸う人でもいい人たちという存在に巡りあって、「『◯◯だから』みんな良くない人だ」というわけではない、ということに気付いた。
たぶん私にとって未知の世界だったから偏見を持っていただけだ。
だから大人になってからは、「◯◯人(外国人)はああだこうだ」とツイッターなどで悪口を言っている人を見ると、「あぁ、◯◯人の友達がいないから言えちゃうんだなぁ」と思う。◯◯人で、素敵な友人に巡りあえていたらそんな言葉は出てこないはずだ。素敵な人に出会えてなくてかわいそうな人だな、と思うようになった。
未知だから、周りにいないから、簡単に線引きしてしまうのだろう。悲しいけれども。
そして自分自身も、差別は正直、してしまっていると思う。なるべく減らしていきたいとは思っているけれども、、。
いろんな人に会って、知っていきたい。括らないようにしたい。。。。

(感想切り貼りしたら似たようなこと繰り返してるな!!)

あと2011年の感想では

---
自分のことを正しいと信じている「悪」が一番怖いと思う、でも何を「悪」とするかなんてそれもまた生き物が判断するとしたら様々になってしまうわけで、

正しいと信じてやってきた結果とんでもないことになることもあるし、そのときになって相手の言い分がわかるんだけど、それまではそんな結果招くと思ってないし、招こうと思っていたわけでもない。正しいと信じ込んでいる。

---

と書いてて、たぶんエボシ様のことを「悪」と書いてると思う(でもかぎかっこがついてるから、作中での「悪」って意味で書いてるのかも?)。
2020年、再度観て、人間にとって良いと信じて守るためにやっているから簡単に悪者ともいえない。と思った。悪者は誰一人いなかった。それぞれ、自分の一族、仲間、を傷つけたくないだけ。守りたい、発展させたいだけなのだなと。
対象がでかいから、だめだよ〜と感じるけど、たとえば自分の平穏を守るために虫を殺すという行為は、誰しもやった経験があるのではないだろうか。とても大きく括れば、エボシ様のやっていることも、同じだと思う。

あと2011年の感想に触れたついでに。当時もののけ姫の感想から派生してこんなの書いてたのでメモ笑

---
「正しい」と思うことは人それぞれ違うし、同じ動物でも意見の衝突というものはある、人間も同じ、同じところで同じように同じことを聞いて育ってきてもどこかで大きく異なった(衝突しうる)考えを持つこともある。

でも考えっていうのは、「人それぞれ」といってもその人自身が本当に持った考えなのかっていうと、今まで生きてきて得た情報や考え方を吸収した上で、どの「考え方」を選ぶかということであって、本当にその人自身が持った「考え」と言えるのかというと、どうかなぁって思う。所詮元は「自分以外」から得たものじゃないか?選んで混ぜ合わせてうまく調合して作り出しただけなんじゃないか?それは「自分」の「考え」なのか?と思う。

(ここにさっき抜粋した「悪」云々の文が入る)

まあ、あれかな。「調合して作り出した」「考え」と言えるのかもしれん。調合の仕方によって無限の考えができるんだから。その調合の仕方=人それぞれ、と呼べるのかもしれない。
---

考えの調合!9年前の20歳の私の感想、面白いなと思った。笑

、、、憎しみの連鎖についても、色々考えたけどまたぐだぐだになりそうなのでカット!笑

おまけの感想
・こだま、真似しておんぶしてるのかわいい。
って思っていたら9年前の感想にも書いていた。笑った。

・湖のシーン
助けられた男「ここはあの世の入り口だ、、」
アシタカ「そうだな!ちょっと休もう」
返事適当か?!wwwめっちゃわろた

・女が長で、「男だけだったら今頃腹の中さ」っていう台詞も印象的。男より女が強そうな社会。

・サンはなぜ殺そうとしていたアシタカを助けた(というか、殺さなかった)のか?について、すぐ理解できなくて、振り返ってみた。
なぜか、といわれたらアシタカに「生きろ、そなたは美しい」と言われたからだ。そこまではわかっている。
それを言われたらなぜ、殺そうとまで思っていた憎き人間を救うまでに至るのか?(正確には、殺すことを一旦やめて、生かすか殺すかの判断をししがみさまに委ねたのだけど)
山犬として、がむしゃらに生きていたところ、そんなふうに言う人がいなかったからだろうか。
人間だけど山犬として、生きてきて、エボシ様たちには狙われていて、、
なんて生き方をしていたから、どストレートに肯定されて、戸惑ったのかな
うまく書けない笑

あと、、ヤックルどうか生きてくれ……とずっと思っていたので最後までしななくて嬉しい。サンに「好きなところにお行き」とくつわ?をはずされても、ちゃんとアシタカを待っている、ご主人思い。かわいい。
アシタカとヤックルのように、人間と動物でも絆は芽生えるというのも一つ希望の形として描かれているように感じた。



ぐっだぐだの感想だけど、もう、このまま残してしまう。

年とったら、新たな感想が出てくるかもしれないから、また見てみたい。
ふみ

ふみ