浦切三語

エピデミック〜伝染病の浦切三語のレビュー・感想・評価

エピデミック〜伝染病(1987年製作の映画)
4.3
前回の感想が眠気に負けてあまりにも適当だったので書き直し。シネマート新宿で2回目の鑑賞をしてきて、やっとこの映画が伝えたいことがわかってきたような気がする。

本作「エピデミック~伝染病」がどういう作品かと一言でいえば「伝染病」と「映画」を等価なものとして描いた作品です。伝染病と映画。一見して何の繋がりもなさそうに見えるこの二つに共通項が存在するとしたら、それは「波及(インフルエンス)」というものじゃないでしょうか。

この映画は、劇中劇でメスメル神父がペスト蔓延中のヨーロッパを旅する話が描かれていますが、間を縫うように現実の世界で語られるのは、トリアーが本作の制作にあたって丹念に調べたであろうどうでも良い雑学や、ニルスのペンフレンズにまつわるバカ話です。壁から硝石が析出する話だの、歯磨き粉が綺麗に2色出てくる理由だの、人間が一生のうちに習得できる学問の量には限りがあるだの、ワイン農園を襲った寄生虫の話だの、病理疫学のアレコレだの……私みたいな頭のおかしなファンを除いて、一般的な観客からしてみれば本当に「どうでも良い雑学」が目白押し。これらは一見すると物語の進展にはなにも寄与しているようには見えません。実際その通りではあるんですが、しかしなにも、あざとくスノッブな雰囲気を出すためにどうでも良い雑学やバカ話を披露しているわけじゃないんです。

少々話は変わりますが、そのむかし、フジテレビで「トリビアの泉」という番組が放送されとりました。あの番組が、なぜあれだけの人気をお茶の間で獲得したかといえば、番組内で出される雑学が学校や職場などで、他愛ない話の素材として「使える」雑学だったからに他ならず、「明日、すぐ誰かに話したくなる雑学を教えます」というのが、あの番組のコンセプトであったのは明白です。つまり雑学やとるに足らないバカ話というのは、それらを蒐集しただけでは不十分。誰かに話す、伝達する、すなわち「波及させる」ことで、はじめて雑学は雑学としての、バカ話はバカ話としての真価を発揮する。

そうしたトリビア話のなかで、ひときわ観客の心に残るのが、ウド・キアがトリアーたちに語ってみせた、自らの出生時にまつわる昔話。時はWW2の真っ只中。英軍の空爆で病院が焼け落ち、逃げ遅れた人々が池に飛び込んで溺死していく……臨終の床についた母から聞かされたその話を口にしながら、ウドは涙を流し、その直後のシーンでニルスはこう口にするのです。

「伝染病が理解できたよ」

これは、戦争の持つ悲劇性と伝染病が持つ残酷性を結びつけての発言というより、ウドの反応を見て口にした台詞なんじゃないかと私は感じました。死の淵にある母から自分が産まれた時にどんなことがあったかを伝えられて涙を流すウド。母が当時体験した言葉にならない必死さがウド本人の心に波及したからこそ、ウドは涙を流した。そこにニルスは伝染病の本質……すなわち「波及する力」をみてとったのです。その伝染病が持つ「波及力」が視覚的に最も表現されているのが、ラストのホラーシーンであるのは言うまでもありません。

そして「波及」という面に着目すれば、それは映画が持つひとつの性質であるとも言えます。感動的な映画を見て涙を流す。激しいアクション映画を見て興奮する。社会派な映画を見て自身に問いかける……このとき、観客の心には映画が有する「波及の力」を介して物語が伝えられている。

こうした「波及の力」で観客に伝えようとする物語に込められる要素というのは、とくに商業作品の場合はキャッチーなものになりがちです。親子愛、人間愛、友情の大切さ、努力の価値、人生の素晴らしさ……そうしたプラスな要素(テーマ)を観客の心に波及させるために映画を使う監督たちが多いなかで、世にも恐ろしい「伝染病」の波及性と映画を結びつけようというトリアーの野心的試みは、たしかに露悪的に見えます。しかしそれこそは、トリアーが純粋に映画が持つ「波及」の力を信じているが故の「無邪気さに宿る恐ろしさ」の現れであり、同時にそれは「観客に"物語"という"夢"を観てもらいたい」という願いの強さをひしひしと感じさせるものなのです。過度に映画に詰め込む物語に愛情を持つことなく、非常にフラットな視点で映画を作る。その「クールさ」を伝えるうえで、このやや青みがかった35mm,16mm,8mmフィルムの効果演出は最適解と言えるでしょう。クールにカッコよく「映画が持つ波及力」を伝えた快作。是非ともBDで手元に置いときたいもんだぜ~!
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