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『マフィア』に投稿された感想・評価

シチリア祭り(26)

イタリア版のDVDで鑑賞。日本未公開。テレビ放映はされたみたい。おそらくそのときのタイトルが「マフィア」だったようだ。

クラウディア・カルディナーレの映画的な存在感。それにしても彼女はなんとシチリア女が似合うことか。ざっと思い出してみても『いつもの見知らぬ男たち』(1958)のカルメリーナ、『汚れなき抱擁』(1960)のバルバラ、『山猫』(1963)のアンジェリカ、そしてこの作品のローザときて、さらには『鉄人長官』(1977)のアンナ。

またフランコ・ネロはカラビニエーリの隊長役がぴったりだけど、じつはこの映画のオファーを無視していたらしい。すると、当時の奥さんだったヴァネッサ・レッドグレーブから、マフィア小説の傑作じゃないの、ぜひやりなさいと言われたとのこと。

ドン・マリアーノ役のリー・J・コッブはみごとな存在感。よく連れてきたなという感じ。もちろん吹替だけど、この映画の撮影はすべて英語で行われ、あとでイタリア語に吹き替えられたという。このころよくあった形だよね。だからすぐに国際マーケットに出すことができたわけだ。

記憶にのこるのはセルジュ・レジアニの演じたパッリニエッドゥ。この街の密告屋でいわば二重スパイ。権力にもマフィアのボスにも媚びながら世渡りをする男といえばよいのだろうか。映画のなかに出てくる言葉でいえば「ルッフィアーノ ruffiano 」(ごきげんとり)となるのだろうけれど、結局のところは「密告者 delatore 」とされ、存在する価値のない「クァクァラクァッ」として消されてしまう。この俳優さんはイタリア生まれでイタリア名はセルジョ・レッジャーニ。ファシズムのイタリアから逃げ出した両親に連れられ、8歳のときにフランスに移住して帰化したという。イタリア映画でも活躍、『山猫』(1964)のチッチョもシチリア人の役だったよね。選挙の不正を告発しながら、サリーナ伯に黙れと窘められたときのあの悲しげな顔が、この作品でも生きている。

で、この映画だけど、原作はレオナルド・シャーシャの1961年の小説『真昼のふくろう』(竹山博英訳、朝日新聞社、1987年)。映画の原題も同じ。この小説は、マフィアを告発する小説としてはイタリア文学史上初。不思議に思えるけれど、イタリアでは戦後すぐの1950年代、マフィアなど存在しないし、あるとしてそれは「取るに足らない文化的なカテゴリー」にすぎないというのが定説となっていた。犯罪組織としてのマフィアの危険性を指摘する声は、おもにアメリカから届いたものだったようだ。そんなイタリアで、最初にマフィアの問題を取り上げたひとりがラカルムートで教師をしていたレオナルド・シャーシャであり、この『真昼のふくろう』でマフィア問題を初めて世に問うたという。

このシャーシャの作品は、ダミアーノ・ダミアーニによって1968年に映画化されるが、実はその一年前の1967年に、エリオ・ペトリが同じシャーシャの小説『人それぞれに A ciascuno il suo 』(1966年、邦訳は『ちいさなマフィアの話』所収)を映画化。邦題は『悪いやつほど手が白い』)。

シャーシャ作品の映画化は、1960年代末という旧体制への抗議の声が激しくなる時代における、この2本の映画を嚆矢とするのよね。ペトリはシャーシャと非常に親しかったというし、ダミアーノ・ダミアーニのほうも、1969年の『シシリアの恋人』、1971年の『警視の告白』と、シチリアを舞台にした映画が続く。あきらかにシチリアに魅了され触発されたいるというわけだ。

それにしても、このシャーシャの描くドン・マリアーノの魅力的で恐ろしいこと。マフィアのボスとして建設業の汚職を陰で操っているのだけども、街の人々からドンとよばれて敬われていることだけあって、人間的な深みがある。そして、フランコ・ネロの演じる大尉が容赦無く捜査してくることを、怒るどころかむしろ評価してしまうのが、怖いところ。たとえばこんなセリフがあった。

「わたしは人間を5つのカテゴリーに分類するのだ。本物の男、半人前の男、男くずれ、それから言葉はわるいがご機嫌とりのポン引き野郎 ruffiani 、そして最後に来るのが、あたかも存在していないような奴らで、クワックワラクワーたちだ。本物の男たちはごくわずかしかいない。半人前の男は数少なく、男くずれはずっと数が多くが、連中は自分が大人だと思っている子どもなのだ。ポン引きやろうどもときたら、ほとんど軍隊のような数になってきている。最後にくるククワックワラクワーたちはガチョウの群れだな」

(Io divido l'umanità in cinque categorie: ci sono gli uomini veri, i mezzi uomini, gli ominicchi, poi — mi scusi — i ruffiani e in ultimo, come se non ci fossero, i quaquaraquà. Sono pochissimi gli uomini, i mezzi uomini pochi, già molti di più gli ominicchi: sono come bambini che si credono grandi. Quanto ai ruffiani, stanno diventando un vero esercito! E infine i quaquaraquà, il branco di oche.)

この「ポン引きやろうども ruffiani 」というのはシャーシャの原作では「pigliainculo」となっているが、文字取りには「尻でもっていくやつ」ということ。多分映画になるとわかりにくいので、誰でもわかる ruffiano に書き換えたのだろうな。

ともかくも、このドン・マリアーノは、こうした人間類型を披露したあとで、フランコネロの大尉のことを「たとえキリストのように十字架にかけるのとしても、あいつは人間だな」と評価する。

いやはや、このマフィアのボス、みずからのことをたとえ死んでも復活するキリストに例えているのだから恐ろしい。そして迎えるラストシーン、ボスはきっちり復活し、仲間と一緒に新しく赴任してきたカラビニエーリの大尉を値踏みしながら、あいつはクワックワラクワーだなと高笑いすることになる。

映画はそこで終わるが、シャーシャの小説はフランコ・ネロの演じた大尉が故郷のパルマに帰ってシチリアを思うところを描写している。

「パルマは雪化粧の魔法がかかり、静かで人通りがなかった。《シチリアでは雪はまれだ》と彼は思った。たぶん文明の性格というのは、雪とか太陽によって決まるのだろう。雪の日が多いか、太陽の出る日が多いか。彼は少し混乱した。けれど家にたどり着く前には、頭の中はすっきりとして、シチリアを愛しているのだと、そしてきっとまた戻るだろうと悟っていた。《頭が割れる思いをしてやるからな》と彼は大きな声をあげた」
(Parma era incantata di neve, silenziosa, deserta. 'In Sicilia le nevicate sono rare' pensò: e che forse il carattere delle civiltà era dato dalla neve o dal sole, secondo che neve o sole preva- lessero. Si sentiva un po' confuso. Ma prima di arrivare a casa sapeva, lucidamente, di amare la Sicilia: e che ci sarebbe tornato.
«Mi ci romperò la testa» disse a voce alta.)

小説と読み合わせると、なんとも考えさせられるラストシーンではないか。ぼくらだって今、かの国の一党独裁的な体制や、かの国のポピュリズムを前に、右往左往しているのだけれど、それをひとことで現代のマフィア的な問題状況だとするならば、ぼくらもここでなんとか、たとえ「頭の割れる思いをする rompersi la testa 」ことになろうとも、逃げずに解決策を探ってみることが求められているというわけなのだ。

追記
ダミアーノ監督たちはパレルモの近くの町に舞台にぴったりの場所を見つける。それがパルティニーコ(Partinico)の町。カルディナーレが来るというので、ロケ地に選ばれたこの町では、それこそ「マフィア」をはじめとして大歓迎だったらしいね。