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鏡の中にある如くのCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

鏡の中にある如く(1961年製作の映画)
4.0
【廃墟の中にある孤独】
「死ぬまでに観たい映画1001本」掲載のイングマール・ベルイマン映画『鏡の中にある如く』を観た。ベルイマン映画は荒涼とした地と影による不気味さの表現に優れている印象を受ける。ただ、自分の中では得体の知れなさがあり、それが怖さにつながっていると思っている。本作を観たところ、ベルイマン映画における怖さの正体が少しわかった気がした。

仲良く家族が陸に上がる。幸せそうに見えるも、突然牛乳を落とす。食事の場面では、家族仲良く食事をするのだが、小説家ダビッドが小説の進捗に関して口を濁らせると、家族が俯く。突発的な翳りにダビッドは何かを察する。プレゼントを勢いよく渡して、「ちょっとタバコ吸ってくる」と立ち去る。彼がいなくなるのを確認すると家族は、

「これは指にフィットしない」
「同じようなもの持っている」
「たぶん、ストックホルムに着くまでプレゼント買うこと考えてなかったんだろうね」

と口々に言う。

部屋の奥でダビッドは泣く。濱口竜介監督はこの映画を参考にしたのではないだろうかと思うほどの、会話運びで一気に地獄へと雪崩れ込む展開に背筋が凍る。もちろん、視覚的恐怖演出もいつものベルイマン節が光る。今回は廃墟の使い方が鋭い。

家族が生活しているのにもかかわらず、壁紙がぐしゃっとした廃墟、朽ち果てた船の中に気が付けば追い込まれているのである。廃墟とは、かつて人々の営みがあった場所だ。温かな空間があったはずの場所だ。そこに運動している人間がいる。冒頭の家族団欒の急降下を踏まえることで、内なる世界に毒された人の心理が恐ろしいほど正確に、そして残酷に表現されている。つまり、一見よく振る舞っている家族ですら、自分を憐れみの目で見ているかもしれないと思い込むことにより精神が蝕まれる状況である。ダビッドは明らかにプレゼントのセンスがないことを分かっている。しかし、対話もせずに自ら、翳りへと自分を追い込んでしまっている。映画は薄暗い空間、廃墟という朽ち果てた過去の中でひたすらもがき苦しむ様を描く。本作の廃墟の怖さと『狼の時刻』の怖さを紐付けるとベルイマン映画が少しわかるかもしれない。例えば、『狼の時刻』では質素な建物の中で物語が展開されるも、突然ガラ模様の背景が現れる場面がある。これは、突然異界の扉が開いてしまったかのような怖さがある。『鏡の中にある如く』では突然、生活できないであろう部屋に流れ着く場面がある。どちらも、自問自答の過程でいつのまにかよく分からない場所に迷い込むタイプの怖さといえる。陰鬱な気持ちになった時、脳のリソースを膨大に割いて自問自答するうちによく分からなくなることがあるだろう。それを画に落とし込んだのがベルイマンといえる。

『鏡の中にある如く』では終盤に愛と神を紐付ける。

愛とは、対話の中で生まれる親密な関係である。神とは、制御不能で混沌としている自然や社会に対して自分の行くべき道を指し示す存在である。つまり、本作はどん詰まりな人生に対して孤独を抱えた者が対話を渇望する物語だと解釈することができよう。体調不良で会社休んでいる最中に3本ベルイマン映画を観たのだが、精神状態を心配したくなるほどの狂えるクリエーターだなと感じた。
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