鏡の中にある如くの作品情報・感想・評価

「鏡の中にある如く」に投稿された感想・評価

m

mの感想・評価

4.0
何かにすがって生きているから見失う。結局自分を救えるのは自分しかいないと思った。

自分の中から見える世界のすべてを愛せばいい。愛される(すがる)のではなく、愛せばいい。それはすなわち、自分が自分の世界の神になればいい。自分の世界は誰にも崩せない。

他者や神の存在は、自分の世界を築く過程にあればいいのだ。

(大前提として自分の世界とは無論、極めて善でなければならない。そしてそれは美しい。)
最初仲良さそうに見える家族の、次第に明らかになってくる苦しみ、隔たり、異なり。私は弟くんが一番好き。まだ気持ちは意外と若いのかな?(笑)
でも感じたままに涙を流したり、逃げたり、喜んだりすがったりするのだってありだと思うんだ。だんだんと壊れてゆく姉に触れたとき、私の現実が崩れてゆく。
自分だけの現実を超えて、人を愛してゆくことは素敵だと思った。
あとクラシックのことはよく分からないけど、バッハは好きなので使われてて嬉しかった。
かーく

かーくの感想・評価

3.6

すがるものがあるから生きていける。なんかほんと死は無意味で、それを考えると神なんかいないって思っちゃうけど、「愛」の話を聞いたらなんか腑に落ちた
eigajikou

eigajikouの感想・評価

4.5
大寺眞輔氏解説より。題名由来聖書コリント人への手紙から。大人は色々知って若い頃の様に没入できず“鏡に映す様に朧げに見ている”若い姉弟2人と大人の父・夫2人の対比で愛の減衰を描いた普遍性ある作品。限られた舞台、時間、人物で人の心を掴む工夫が随所に。

息苦しいほどの緊張感。豊かなナラティブ。
まつき

まつきの感想・評価

4.1

このレビューはネタバレを含みます

<鑑賞直後当時のなぐり書きメモ転記>

・ベルイマン作品、これで7本目!ベルイマン映画祭の5本目!これだけ立て続けにベルイマン作品の感想を書いてると、「ベルイマン自身の父との確執が〜」「神の不在が〜」みたいな内容ばっかりになって、なんか麻痺してくる…笑。

・「家族のディスコミュニケーション」「死にそうな人がめっちゃ叫ぶ(名はベルイマンの母の名前カーリン)」

・父は「自殺に失敗して(死を強く意識して)愛に目覚めた」わけだけど、『夏の夜は三たび微笑む』や『野いちご』も、そんなところがあるよね。

・ラスト、父が「神は愛だ」と宣言するわけだけど、ここまで露骨なのはあまりなかったかな・・・?確かに、人にとって、救いや正しさの象徴が神なのだけど、神は不確かな存在で、時に人を混乱させ絶望に陥れることがある。では、救いであり正しさをあたえてくれて、しかも存在を確かめられるもの…と考えると、「愛」が導き出されるのはとても合点がいく。
『寝ても覚めても』の正面ショットがあの構図にもかかわらず小津を逃れているのはベルイマンに吸われていたからだ。『寝ても覚めても』において「神」が「神」として存在せず朝子と麦に偏在していたように、本作においてもそれはカーリンを通じてのみ顕現するが、それを想起させる不穏さはロケーション以上に限定的なものだ。同時に、影響下にあるどの後作も比肩しない孤高たる位置に本作を足らしめているのがまさにそのロケーションである事実は、朝子とカーリンを決定的に分かつものである。

このレビューはネタバレを含みます

「ベルイマン生誕100年映画祭」にて鑑賞。本作から始まる「神の沈黙」三部作を含む4作品が特集上映分類の「中期Ⅱ」。

牧師で厳格な父に屈辱を受けつつ育ったベルイマンは20代前半のある日、父を殴り倒し家を飛び出て、何年もの間、父と会うことはなかったという。父への憎しみをキリスト教の神に転嫁し、神の存在を疑い、芸術にこそ真理があるというような作品を手掛けてきた。

しかし「四十にして惑わず」という孔子先生のお言葉とは裏腹に、40歳で製作した「魔術師」では芸術をも懐疑し、続く「処女の泉」ではキリスト教の勝利を描く。おまけに、映画批評紙面に偽名を使って自分の批判記事を書くという…。

個人的な実感からすると40歳とは体力の衰えを実感し「オレって本当に死ぬんだなあ」と思った節目の年。そうなると人間、気が弱くなるというか、角が取れてくるというか…(人によりますが)。

いずれにしても年をとったベルイマンは父への憎しみも薄れ「別に神がいたっていいんじゃね」と考えるに至ったのではないかと、「神の沈黙」三部作の感想文を考えていくうちに、妄想を膨らませてしまった。

誰が言ったのかは知らないけれど「神の沈黙」は「沈黙」であって「不在」ではないという当たり前の事実に気づくのにたいそう時間がかかるという自分の不明はさておき、沈黙するからには「口をきかない」とか「黙り込む」という行為をする人(神)がいることが前提。だから「神の沈黙」と言った時点で、神が存在することは確定ではないかとして感想を進めていく。

神は何かといえば「愛」。劇中である人物がズバリそう言っているし、タイトルの『鏡の中にある如く』が、「愛の章」とも呼ばれ、結婚式でも読まれる有名なコリント前書第13章の中の12節に基づいている。

その12節は口語訳は次のよう。
<わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。>

鏡に映すと、何故おぼろげに見えるのかといえば、この文書の時代の鏡はガラスでなく金属を磨いたものだから。そして「その時」の終末にキリストが再臨し、わたしたちは神を見るらしい。

最後の13節の口語訳が次。
<このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。>

愛は永遠、愛は最強、愛は真理、愛は神(言い過ぎ?)。<愛は呼びかけ。人間は、神のメッセージをわかって、それに応答しなければならない。イエス・キリストが現れてから最後の審判までの時期、神は、その呼びかけに人間がどう応答するか、まっているんですね。>(『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎、大澤真幸・著)つまり、愛のない、愛がわからない人間には神はわからない、神は沈黙しているように思える、ということなのかも、本作のように。

精神を病んでいて、愛を必要としている女性カリンに対し、娘のことを小説のネタにしようとする父ダビッド(=小説家=芸術)と、妻を心配するのは夫としての立場と職業的義務感のマーチン(=医師=科学)という愛の歪んだ2人に加え、愛と欲望の区別がつかない弟ミーナスのせいで、カリンが「神?」のようなものを見てしまう、みたいな。

ミーナスはダビッドとの関係が良くないのか、父のことをディスる劇を上演したりもしていて、4人の間には親子愛、夫婦愛、姉弟愛のいずれも成立しておらず、これじゃあ神も沈黙するわな、と。

しかし<その時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう>的なラスト。この家族の物語も終末になって初めて神を知る、のかな? 「神の沈黙」三部作は次の『冬の光』が一番好きかも、一番激しく寝落ちしたけれど…。さて、おあとがよろしいようで。
ポランスキー「反撥」アルトマン「イメージ」ヴィルヌーヴ「複製された男」最近ではオゾン「2重螺旋の恋人」等、この映画の影響はいたるところにみられる。
さらにヘリコプターの登場で、先日観た「雪崩」を思い出した。
「神は愛そのものなんだ」「じゃあ姉さんは僕と父さんに愛されてるから神と一緒にいるんだね」

冒頭の牛乳をこぼして水場に混ざりこんでいく描写に、娘の狂気が伝播する結末を暗示しているような。鏡のような水面や、地上と地下(水面下)による境界など、物語と場面の関連をずっと考えながら観た
秋のソナタの結末の妹と、本作の最後の弟の対比を考えて少し救われた気になる
レナ

レナの感想・評価

3.5
え、お、終わった……となる映画一位。

神を信じ精神を病んでゆくカーリン、芸術という悪魔に魂を売った父。
カーリンの夫の、無償の愛が一向に彼女に届かない無力さの一方で、愛が存在すると確信することで神を信じるという父親の言葉は僅かながら希望を持たせる。お前が言うかそれ…と捻くれ者なので思ってしまうが。

この絶妙に原体験的なsomethingを刺激してくる感じ、ぞわぞわするな〜