レインウォッチャー

たぶん悪魔がのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

たぶん悪魔が(1977年製作の映画)
4.0
70年代のパリ、墓地で一人の青年が死んだニュースが報じられる。自殺か他殺か。時間は半年前に遡り、彼・シャルルが過ごした日々を回想する。
『湖のランスロ』とのカップリング上映にて。

タイトルの「悪魔」とは、環境や社会の問題を悪化させているものの象徴だ。劇中のある(なんでもない)男が、たぶん悪魔のせいだ、と口にする。
悪魔とは複雑化・多様化する諸問題を押し付けるのに便利な役目で、同時に思考停止のスタートでもある。ここで気づくのは、神にしろ悪魔にしろ人が自分の人生の責任をある程度転嫁できる先としての機能を有しているということで、わたし含め多くの凡人にとってはそういう存在がいないとあまりに人生は長すぎて不当なのかもしれない。

この、人が持つ主体性のなさのようなものが今作のテーマの一つかもしれず、少なくとも青年シャルルを形成する1ピースになっている。
彼は一言で表すなら厭世的、「生きるのも死ぬのもいやだ」などと嘯く。政治、信仰、科学、性愛…どれも彼にとっては夢中になれるものがなく、死へと引き寄せられていく。しかしそれを鬱や自殺願望と呼べるのかも微妙なところで、死すらもただの消去法という感じがする。

この人物像や映画の大枠はルイ・マルの『鬼火』('63年)を思い出すところだけれど(※1)、『鬼火』でモーリス・ロネが演じたアランとシャルルにはいくつか根本的な違いもある。
シンプルに言うなら、シャルルのほうがもっと冷淡・平坦・勝手に見える。そもそも、若い。アランが抱えるのはさまざまな山谷を経験をした末の絶望である一方、シャルルは最初から諦めているのだ。

その傾向は一部でシャルルの「頭の良さ」に根ざすものでもある。
意外にも優秀な人や若者ほどいわゆる陰謀論を信じやすい、という話もあるけれど、シャルルもなまじ頭が回る分、目の前の物事の結果を先回りで予測し、経験する前から「そんなものか」と見限ってしまうのだろう。

映画としても『鬼火』ほど耽美的ではなく、リアリスティックに突き放している印象が強い。
シャルルや周りの友人・恋人たちの様子を散文的に追っていき、とりとめなくも見えるのだけれど、やがて全体の響き合いをもって、彼らや彼らが生きる時代をうっすらと覆う不安感が浮かび上がってくる。さながらダ・ヴィンチがぼやかした筆致(スフマート)の塗り重ねで生んだ陰影のよう。映画的な作為を冷たく廃しているかに見えて、その先には抗いがたい美しさがある。

ちょうどポスターヴィジュアルにあるコーデュロイのジャケットのようなクラシックで深い色調の室内と、光が淡くこぼれる室外の対比には時折息が漏れる。
また、これは『湖のランスロ』とも共通する点で、音響の使い方がユニークで鋭い。教会で響くオルガンや屋外のサイレンやクラクションはまるで登場人物たちの会話に割り込むかのごとく耳障りに脅かし、見えない神や悪魔による合いの手のようだ。

ロベール・ブレッソンが今作に込めたものが怒りなのか風刺なのか、はたまた諦めなのかは特定が難しい。ただ、シャルルのような人物像や彼が直面する悩みは現代にもまったく古びず通用する(してしまう)ことは確かで、わたしたちは未だに神にも悪魔にも出会えないまま怯えている。

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職業俳優ではない人たちを集めて撮られた作品とのことだけれど、にわかに信じがたいほど皆がシネマティック。
シャルルは今の世ならティモシー・シャラメ風と呼ばれそうだし、悪友ヴァランタンはエズラ・ミラーだろうか。もう一人の友人ミシェルはOasisのギャラガー兄に激似で、わたしは劇中で彼の名前が特定できるまでずっと密かに「ノエル君」と呼んでいた。

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年内最後(たぶん)の劇場訪問は予期せぬところだった。京都みなみ会館、お初にお目にかかる。
西のイメージフォーラム的な立ち位置にして、東寺の加護のもと魅力的な映画ラインナップを守っている。ブレッソン特集、今まで待っててくれてありがとうございます。

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※1:拙筆ありマス
https://filmarks.com/movies/8774/reviews/137739728