Laura

風の中の牝鷄のLauraのレビュー・感想・評価

風の中の牝鷄(1948年製作の映画)
3.5
タイトルは戦後の荒廃した世の中で懸命に生きる女を暗示したものだろうか。経済的困窮から妻が身売りするといういかにも重い話で、倫理と感情のはざまでもがき苦しむ亭主の姿も小津としては確かに異色ではあるのだが、画面にはいつもの小津調がしっかりと刻まれている。小学校から聴こえてくる唱歌をバックグラウンドに売春宿の室内が映されたり、佐野周二と笠智衆がはたらくオフィスの窓の外にダンスホールで踊る人たちが見えたり、息を呑むような音と映像のタイミングの連続なのだが、ひけらかすようなところもなく全てがごくさりげなく生起する。田中絹代は溝口の映画で何度も女の零落を演じてみせているイメージだが、『西鶴一代女』や『山椒大夫』はこの後の作品になる。不貞(結局相手の男は不能だったとほのめかされ、本当は不貞とまでは言えないのだが)を犯してしまう妻の哀れっぽい媚態が見事だ。紙風船や空き缶など、夫婦関係の緊張を暗示する小道具のシンボリックな使い方はフリッツ・ラング的で、それは女が亭主の背中に回した手を祈るように組み合わせたカットに集約されるかも知れない。
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