Kuuta

飢餓海峡のKuutaのレビュー・感想・評価

飢餓海峡(1965年製作の映画)
4.3
台風の日、北海道で起きた強盗殺人事件と、津軽海峡の連絡船沈没事故。乗客の遺体の中に身元不明の死体が見つかり、事件との関連が疑われる。

事件の共犯者(かどうかは最後まで分からない)犬飼(三國連太郎)は、津軽海峡を超えた事で事件に「区切り」を付け、本土で別人として生活を始めるが…。

犬飼は戦後日本の象徴に思える。

・生き残った自分が、仲間の死の上に新たな人生を始める。
・大量死=戦争の中で有耶無耶になった真実がある。
・金持ちになったものの、いつ過去が復讐にやってきて、自分の欺瞞が崩れるか怯えている。

犬飼が最も恐れているのは、この世とあの世、本土と北海道で分割したはずの世界が一つになってしまう事。

だが、最初に逃げ込んだ宿で、娼婦の八重(左幸子)に本名を明かしてしまう。嘘の世界を生きようとする彼にとって、彼女は虚実の境界を揺さぶる存在として、心に引っかかり続けている。八重の地元が恐山なのも象徴的で、逃走中の犬飼はイタコの口寄せを偶然観る。この場面のイタコの顔はトラウマものだった。

八重は犬飼を狂信的なまでに想い続ける。10年越しの再会を果たすシーンは今作最大の見せ場だ。別人のフリをする犬飼と、「犬飼さんでしょ?」と詰め寄る八重の切り返し。現実と虚構、戦前と戦後、交わってはいけないものが、復興し、新しくなった家で交わろうとする時、事件の日と同じ雨と風が吹き付ける。

(繰り返される風の演出。尋問で平静を装う犬飼は扇子をパタパタさせ、室内には扇風機が回っている)

基本的に「観客が全体像を把握している」タイプのお話なのだけど、この再会シーンの前は八重目線の生活奮闘記が続き、犬飼は観客の前からも姿を消してしまう。だから、久々に画面に三國連太郎が登場すると緊張が走る。構成が上手い。

この映画は、中盤、何の前触れもなく時制が10年後に飛び、キャラの見た目も一変する。この構成自体が、戦前戦後の断絶を示しているようだ。今泉力弥が「アイネクライネナハトムジーク」で、震災の前後を10年飛ばしで表現したことを急に思い出した。

八重と犬飼を執念深く追う刑事(伴淳三郎)はお経が上手く、生と死の引っ掛かりを取り除く「仲介者」のポジション。ただ、彼の仕事はなかなか理解されず、職場では上司に、家庭では妻に怒られているのが何とも悲しい。

撮影では、刑事の推理パートや、犬飼が恐怖に捉われるシーンで、ポジとネガが反転し、文字通り虚実がひっくり返るのが面白かった。電気のオンオフ、扉の開閉、黄泉の国へ向かう列車、川を越えるシーンなど、小技もいろいろ。

欲望の渦巻く海と、対比される空。東京の闇市を走る八重を見下ろした長回しは、神の視点だったのだろうか。あのぐちゃぐちゃな闇市もまた、海の一つであり、戦後の混乱の中で真実が消えていく。ラストで改めて「二つの世界」が強調され、その間を船が進み、鳥が飛んでいく。冒頭が「一つの世界」だった事を考えれば、救いがある気もした。

切ない気持ちになるのが、犬飼と八重の一夜の関係は、決して欲にまみれたものではなかった点。孤独で貧しい2人が「あんたは親切だ」とわざわざ同じセリフを言い合う。

八重はおにぎりを分け与え、犬飼は金を渡す。「食事と支払い」が何度も描かれるのがこの映画の楽しさの一つでもある(娼婦と米兵、稼ぐ夫と食事を作る妻、飲み屋の女将と男の客)。こうした関係は日本中のどこにでもあったはず。なのに、何気ない善意で金や食事を分け合った彼らに限って…という。

緊張感が保たれる理由として、警察の捜査がロジカルに進んでいく面白さがある。それだけに、セリフの捜査報告ばかりになってしまう終盤1時間と、急に刑事の緊張感が緩むラストはやや残念。高倉健の熱血刑事の演技が、内面の孤独や葛藤を抱える三國や伴のキャラクターとはやや食い合わせが悪いようにも感じた。

粗い映像(意図的らしい)に、丸の内TOEIの一昔前の空気、座席の高低差が無くて下からスクリーンを見上げる感じもどこか懐かしく、大満足で外に出たら、連絡船事故の新聞記事が展示されていた。「え、実話なの?」と、現実と虚構がもう一回揺さぶられた気分になった。85点。
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