ニューランド

ともだちのニューランドのレビュー・感想・評価

ともだち(1961年製作の映画)
3.7
✔️🔸【時枝幼児教育’60s】『ともだち』(3.7)『ケンちゃんたちの音楽修行~ヤマハ音楽教室四才児初期の記録~』(3.7)🔸【時枝幼児教育’70s】『学級集団の成長~ある教師の保育日誌~』(3.7)『子どもをみる目~ある保育者の実践記録から~』(3.9)『光った水をとろうよ~幼児の知的好奇心をさぐる~』(3.3)🔸『農民と共に~地域医療にとりくみ50年~』(3.7)🔸『地域をつむぐ~佐久総合病院小海町診療所から~』(3.7)🔸『夜明けの国』(3.8)▶️▶️


 時枝の小特集を幾つか覗くが、書く場がないので、リストアップされてる中では唯一、以前見た事のある本作の欄に、併せて書くことに。当該作に触れずにもおかしいので、一応再見。
 どちらが優れた作家かわからないが、時枝は今の似た名前の人気監督是枝と似て、手法・題材とユニークで色々取り沙汰されるが、他の著名監督の、大上段・大風呂敷と違い、本人は気負わずすんなり入って、後付けニュアンスが強い、映画自体はかなり素直で純粋なものの印象を持たせる。カテゴリーに括られない、固有の個性の穏やかな中のシャープさはこちらに取り憑く。
 欄使用のためだけで再見の意欲はなく、いい映画ではあったの記憶力だった『ともだち』も、通園の立体動感以外は、望遠のアップめ多用主体の角度バランスの構築力外し、時折の俯瞰め退き鳥瞰ながら、ナレーションや不気味な音楽の圧迫感は異様で、しかし全体を揺るがしたり突き破る素振りは皆無。不思議な達観と熟し力である。母親から離れて、社会と集団の入り口に臨む園児ら。入園式前の関係が起点になったり、離れた侭だったり、流れに従うだけだったり、しかし、その中で自分を見つけ、そこから打ち出し主張する事が大事。新しい友達関係が生まれたり、最初は分けただけだったグループも固有の色合いを固めてゆく。そして、はしかの流行で長期欠席の者が復帰しても、前の関係は線が引かれてて、怖じ気づくことも。元々の仲から助け船や、先日までの新親友復活へ、紆余曲折を辿る。最初の6ヶ月だけでこれだけの事らが。生成・変容・リードと怯え、純粋な培養物実験のごとし。
 続く『ケンちゃ~』では、音と絵のシンクロ力が増し、静かな端正さの中の主題を内から強めている。方法や主題ありきではない、内から作家を沸き立ててる物がリードしてる結果だ。極めて、子どもたちの中で育つというより、自然と科学の併さった芸術~音感とその主体操作が、どんどん高次に反射的修得に組立て組み合わされるかを、見てるだけでこの世に、明晰な人と絡まる真理が存在してる確信をこっちも得てく。アップ、全体、角度取り、関係見え、人と扱う物(譜面や楽器)、が映画としても明晰に汲み上げられてきて、前作と違う硬質さ。音楽は身体全体で感じるものであり、それには個性が無くてはならず、楽譜の理解と反射的反応演奏のリンク向上が続き、リズムの体得からメロディや他楽器とのアンサンブルへ、親御さんと同じく神秘と畏れを感じてく。
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 次は幼稚園の男子たちの(大きなウウェイトの)遊び時間の数日間を、只々丹念丁寧に納め積み上げただけの作品だが、一般的上映場提供の短尺版『学級~』と、ディレクターズカット版とも言うべき長尺版『子ども~』がある。後者は、オリジナルネガからではなく、そのデュープからの編集なのかかなり赤めに褪色している(『恋のエチュード』や『天国の門』も画質は短尺当初公開版の方がルックは鮮やかだ)が、かなり広大な男子遊び場にある、箱積み木数十個、追加される大型段ボールら、その他都度応じての各種小間物、を使っての、別世界造型とそこでの冒険譚組み上げと改良破壊再建の同じ流れを追ってるのだが、強力推進者(弱小だが並列リーダーもいる)が中心に、先生のサジェッションも受けて進める巨大基地と滑り台から、陸上と海底基地へ(アクアラングや魚らこっちがゴージャス)へ推移を、心理・決意をベースに、動きと受継ぎを、実に有機的に、手応えと喜び伝わる押さえが続く。メインの者の落ち込みから復活も柔らかく、他の者にもリード力飛び火し、連関・命令体系、無理なく機能し、先生も主導よりも、個性尊重、集団特有力も機能、という先行版に対し、後続版は、脇道や回り道が普通に挟まってくる。ずっと中心となってた筈の子が休み、その間に残りの子たちは新しくエレベーターの開発に夢中になり、ロープの引っかけ方などを思案、快調な展開。ところが翌日メインの子が戻ると、エレベータの関心は立ち消えとなり、その後も、雨の日の停滞、外へ出て砂場での作り物にまた一時移り、また、何でいないのだろう、女の子たちはよそでままごとをやってたらしいのだが、面白そう空気を感じ、合流してくる。全てが繋がる意志の強弱・発見閃き熱情のうねりが感動的だった、先行版に対し、改訂版は、気まぐれが人や自然を動かし、その軌跡・可能性の自由なバランスと弾力がこよなく美しい。目の前に起こる事を角度変・寄り・並行と力こぶ止めて丹念・平均的に押さえてく(その反作品化に嵌まらないのへ、ジャンプカットや音楽の寄与、現実を逆に駆り立てるストーリー性)のに、ひたすら内面に向かうのと、それからさえ、解放されてるのと、行き着く流れはおなじなのに別題材のようだ。筒井さんが書いてたように、動機は違ってもリヴェットを想起させる、天が与えたような成果だ。
 『光った~』は、けっこうかましいモノローグを全て外し成り行きを眺め解釈するだけの、これまでの作の余り物や、未完の作から切り取った断片が、ある程度纏まりを持って、流れてく。
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 映画作家は劇・記録に限らず、色んなテーマ・対象に向かうものだが、この作家も、上記5作のような実験の緊迫や不安を帯びた観察もの(対象への無条件の愛も感じらる)以外にも、今回のリストを見ると、歴史・文化の跡や現存を訪ね、探り掘り起こすシリーズもあるようだ。後年は、地域に永く密着し、その風土の特色と問題に、根本的に向き合い、保全と改善を願い実現させてく、動きに寄り添うシリーズもある。地域医療・在宅ケア・その為の訪問や巡回潤沢を進めてるひとつの場を中心に何年も貼りついた作品群である。三部作の、ニ・三作目を観る。
 『農民と~』。JA長野厚生連の佐久総合病院を一般市民に開放しての病院祭から始まる、医療の地域との連係、特に治療と教育の一体化、大掛かりな出張集団健診や定期巡回診療迄いたる、病院診察終了後の全職員協力の在宅ケアらを、中心となり進めてる若月医師を追いながら、向かう対象の農村の実態・歴史・特殊性を丁寧に描いてく作で、べったり腰を落ち着けた捉え、というより、構図・カメラ移動らも個別特殊なポイントとそれを繋ぐ機動性を示しつづける。やがて半世紀にわたる活動を押さえるのに、病院らが嘗て撮ったモノクロ等のシーケンスも同等のウェイトで入ってきて、本編の農民らのアップ表情の入れ方や全体図・確かな90゜変も堂に入ってて、それらが併せて農村の特異性、農夫病とその解明分析力・対処の構図が明らかにされてくると、極めてコンパクトで且つ無理なく入り共有できる、問題意識とそれに踏み込む手応えの貴重作となってくる。農村の過酷労動・家畜と暮らす不衛生らからの病、農薬投入時代の弊害、夫工場へ勤め増えての母ちゃん農業と補う大型機械導入の危険性、老人比率増えての主たる病の変化、といった時代推移と、都度解明と治療対策の歴史。
 それらを引き継いだ現在の、先兵たる、診療所と病院の外来診療終了後の巡回出張訪問検診の結び付いた、途切れのない地域のカヴァー体制の張り巡らされの充実へ。
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 時枝のタッチは叙情的な音楽を柔らかく載せ、際立った力こぶはい入れないようなタッチながら、対象に引きづられるだけでない、ズームやフォロー移動・目立たぬジャンプカットを溶け込ませながら、構図・角度の変化切り・自然光と佇まい重視、と作品を屹立させる見えない鋭い才気が途切れない。我々が馴染んだ小川・土本のようにカメラ後ろが喋ることは稀で透明人間扱いだが、うんと接近しても対象は平気で、気兼ねなく最適位置・カッティング選択で溶け込んでる。
 『地域を~』。前作の分院の、病床12、医師2名・看護師7名・療法士や薬剤師や事務員や食事入れて十数名からの、高齢化・過疎化が進む農村への、外来時間外での、過密スケジュールの・が苦ともしない、「在宅ケア訪問の検診・看護・介護・データ録り」がメインに描かれる。「在宅での穏やかで、安らかな死」を迎えられるように、「癌など手遅れない早期発見」「最奥地でも平等変わらぬ医療・福祉・保険の変わらぬ最速・最新サービス提供」の実現と維持。「自身高齢で農作業も絡み、同等にケアの必要な介護者ーその相互交流会の開催中」「村の診療所との連携・協力体制」「死後の介護者からの細かい聞取り」「訪問は留守番患者ら、医療と同等に話し触れ合う事が重要」「救命救急や介護者入院での、本院設備・施設との連携、その他やり取り絶え間なくリハビリ大事で留学も」らが固めてく。様々献身が当たり前も、より深い根を現してるが示され、それ自体というより、それへの姿勢が、失われそうだがらあるべき人間と共同体の理想の空気も運んでくる。重度の合併症や、喋るも動くも出、90を過ぎる高齢、検診の気掛かり点への応じかた、皆、くぐもらず、意思表示や理解協力を各々の形で示(し出)してゆく。医師や看護師に悲壮感は皆無で、普通に動いてるを越えた気合いは見えない。
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 中国取材許可期間が文革スタートと奇しくも重なった、貴重な記録『夜明け~』。ただ、そこには作家主体は弱い。日本人撮影隊をおもんばかって遠ざけた日本軍横暴のしるしという、乱掘跡や無数の土を盛っただけの「万人の墓」は、やはり毛沢東により無意味な労働を強いられ、餓死させられた人たちのものか。文革も始まったばかりで、その正体は隠され、人々の顔に後の悪魔や受難の形相より、表向きの明るさが陰り少なく出ている。中国の風土・巨大さもやはり独特の魔力。望遠、それを中心に入り込む赤い陽光、ローや俯瞰や接写・角度変らを意識せずにシャープ・的確に選びとり単なる描写を越える、ここでも天才的なこの監督の感覚も、1966年秋から半年中国に滞在するうちに、向こうの空気に望洋と呑み込まれてゆく。
 文革の始まった頃の中国東北部、嘗て日本が治めていた地域への、映像取材が許されたは、都合の悪いものは日本に転嫁できたからか。無邪気・無知に操られる侭の紅衛兵、中国の底辺でありまたベースとされる農業を支える人民公社は、家族農業を集約・集団化・近代化し、近代的集合住宅や子供をずっと預かれもする学校を整備、村と生産拠点の両面を持ち、都市工場や下放学生の応援を受けも差配し、国の根幹として、第三次だかの五ヶ年計画にまっしぐら中、工場からの機械や装置は不足分は自前で作れる。帝国主義や反動ブルジョアを駆逐し、全ての高位技術者を、国内労働者で賄い労働英雄も生むようになった都市部の工場は、農業や輸送や生活向上を支え、進化している。
 革命で国が出来て20年足らず、風土があまりに広大、実際は半ば以上失敗や停滞が続いてても、僅かに成功した部分を見せられると、小さな国日本から来た者や、中国本土に暮らす者も感覚が麻痺し、見誤ってしまう。稀代の悪魔、毛沢東は政敵を葬り、自己の政策の失敗を隠蔽、人民に目隠しをして、苦しめ結果大量に殺し続けた責任を転嫁、只自分の延命・肥大化権力濫用欲の為の施政、その新しい最大トリックはまだ正体が隠され真実は埋められ続けてる頃。日本の映画作家も、中国人民も、どこかおかしいぞと気づきながら、巨大さと狡猾さに呑み込まれ、笑顔と未来展望を表面的・反射的に浮かべてるのか。そういった狂わせてくる、中国の風土と巨大権力の特異さ侵犯が無意識に描あげられている。
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