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カラー・ミー・ブラッド・レッドのnoteのネタバレレビュー・内容・結末

3.3

このレビューはネタバレを含みます

画家のアダムは、彼の書く絵は「売れるが才能はない」と言われ、自らの作品が評論家から評価されず悩んでいた。ある日、助手で恋人のギギが怪我をして、キャンバスに赤い血がつけてしまう。それを見たアダムは血の色こそ自分の求める赤色だと確信するのだった…。

「ゴア(血みどろ)映画のゴッドファーザー」ハーシェル・G・ルイスの初期作品。
1965年製作と古い作品で、低予算のB級作品だが、スプラッター映画とサイコ・サスペンスの源流を見たような思いだ。

主人公の画家のアダムが、評論家に指摘された弱点を克服する為、試行錯誤の上、人の血を使って作品を作る凶行に及ぶ。
まさにタイトル通りの展開である。

不慮の怪我を負った恋人のキャンバスに着いた血を見て、「これが俺の求めていた色だ!」と人血を絵具に使う狂気のアートという発想は、単純だが強烈。
最初は自らの指を剃刀で切り、画を染めていたが、貧血となり失神するアダム。
それを「馬鹿なことするわねー」と恋人に鼻で笑われ、カッとなって惨殺してしまう。

恋人の血を絵具に使った絵は、迫力のある傑作だと、評論家も絶賛。
アダムは死体の血を使う事に味を占める。
彼は殺人が目的ではなく、絵の具として血を集める為に人を殺すのである。
目的のために罪悪感が完全に麻痺してしまった彼は完全にサイコパスだ。

現代のホラー映画とは勿論比べ物にならないくらい控え目だが、ゴア場面もある。
恋人の顔にナイフを突き立て、海面にいるカップルを銛で刺し、血の海となる光景は60年代ではかなり過激な演出だ。
掘り起こされた恋人の腐乱死体の顔にミミズが蠢くという描写もグロテスク。
犠牲者の腹から飛び出た内臓から血を絞り取るスプラッター場面も、当時の他のホラー映画の残酷描写とは比較にならない衝撃的な映像に観客の目には映ったことだろう。

その後、2組のカップルがアダムの家の近くの海岸に遊びに来る。
浜辺で楽しく過ごしていたが、1人の女性がアダムの家に行くとモデルになってくれと頼まれる。
その夜、女性は友人たちを残してアダムの画廊へ行くと、アダムは彼女を縛り逃げられないようにし、殺そうとする。
しかし、寸でのところで帰りが遅いことを心配した彼氏が助けにくる。
彼は銃でアダムを撃ち殺し、倒れたアダムは自らの血を白いキャンバスに染めるのだった…。

時代に沿った勧善懲悪の物語の結末。
しかし、登場時の主人公は、正常な範疇の人間だったが、葛藤の末に狂気へ移行していく過程が興味深い。
新興宗教の例もあるが、真面目に仕事にのめり込む人間ほど狂気に陥りやすいというが、アダムはその典型と言えるだろう。

アダムの描く絵画が厨二病的な空想画の域だったり、ブロンドのヒロインが身の危険を感じず、ノコノコとモデルになるおバカだったり、その友達が下らないギャグをかましたりと、難点は多数目についてしまう。

しかし、「単に全ては芸術のため」。
崇高な芸術の完成のために、如何なる犠牲も厭わないという画家の姿勢は、弟子や娘を犠牲にして絵師が地獄の絵を描いた我が国の芥川龍之介の小説「地獄変」に通ずる、目的に取り憑かれた男の悲壮さがある。

取り憑かれたように真面目に働き、一つのことにのめり込む、職人気質の日本人ならば、アダムの行動と死に、ラストカットの画商と評論家のように物悲しさと憐れみを感じるだろう。
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