スペイン語圏の作品に接するときには、いわゆるマジックリアリズム(magic realism)という手法を、僕の場合はどこか期待して観ているところがあり、この『オープンユアアイズ』は、その期待を濃密に満たしてくれた作品のうちの1つに数えられる。
マジックリアリズムとは、基本的には現実世界(リアル)に属しながらも、非現実的な要素を、ある領域や視点に混交(こんこう)させることで、魔術的な効果を挙げているものと僕は理解しており、おそらくその根底にあるものは「虚構の現実性」だろうと思っている。
その起源はスペインにはないものの、やはりスペイン語圏の作家であるG・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の印象が、僕のなかではたいへん大きな位置を占めており、古くは宮廷画家のフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828年)などからも、時代やスタイルを超えて、同様の息吹を感じてもいる。
またこのことは、たとえばSF作家のフィリップ・K・ディックの作品が、「現実の虚構性」を浮上させていることと、対比させるように面白く思っている。
フィリップ・K・ディックを原作とする『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督, 1982年)では、レプリカントというアンドロイドの存在を通して、人間であることの根底にあるものを深く問いかけ、その現実を揺るがすような側面がある。そのとき僕たちは、現実として受けとっている世界の基盤が、虚構によって支えられていることを知ることになる。
いっぽう、マジックリアリズムの場合は、G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』が代表的な作品として挙げられ、架空の土地に生きる、架空の一族の物語を描いている。そこでは、空中浮遊をはじめとする、様々な幻想的で神話的な出来事が起こるものの、人々はそのことを日常的に受けとめており、またリアリズムに沿った筆致で描き出されてもいる。
これは、暗喩(メタファー)というよりも、幻想を現実として描写することによって浮上する、「虚構の現実性」のように思う。
ファンタジーと異なるのは、ファンタジーが虚構のための虚構という側面が色濃くあるのに対して、マジックリアリズムでは、虚構の現実性を通して、僕たちの現実に揺さぶりをかけてくる点にあるかと思う。そうした意味では、優れたSF作品が、現実の虚構性を強く立ち上げていることと、表裏の関係にあるとも言える。
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そのように、この『オープン・ユア・アイズ』もまた、現実と虚構の間を、主人公が揺れに揺れたあと、最終的には、虚構の現実性を浮かび上がらせるような作品となっている。
話の大筋としては、金持ちでプレイボーイの1人の男(セサル)が、捨てた女(ヌリア)と、本気で恋した女(ソフィア)との間で苦悶するもの。捨てた女に無理心中をはかられ、女は死亡し、男は一命をとりとめるものの、顔面が崩壊。
そして整形技術も虚しく、男は自暴自棄になっていく。そんなある朝、何故か顔が元どおりになっており、恋した女とも結ばれるいっぽう、死んだはずの女が出現するなど、奇妙なことが次々に起こっていく。
ラストシーンで描き出されているのは、どちらが現実で、どちらが虚構なのかと疑う男の自意識よりも、セサルの自意識が描いたはずの虚構に、現実世界と等価の虚構性が宿っていたことのように僕には感じられる。
そのため、この映画の核心にあるものは、男女のもつれや、男の身勝手な(罪悪感も含めた意味での)自意識にではなく、そうした人間の自意識が描き出す、現実的でマジカルな手触りのほうにあったように思う。
学術的に、マジックリアリズム、シュールレアリスム、ファンタジーなどを概念的に区分し、具体的に諸作品を分類していくのは難しいとはいえ、気軽な鑑賞者の立場から言えば、接した瞬間に、その肌合いとして違いはすぐに感じられる。
また映画作品は、その映像としての叙述性から、本来的にマジックリアリズムとも親和性が高く、映像として優れた作品の多くは、この手法をどこかで採っているようにも思う。
★スペイン