SatoshiFujiwara

71フラグメンツのSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

71フラグメンツ(1994年製作の映画)
4.2
また初期ハネケ、これも良い。

結末(いや、結末という言い方は相応しくないか? それぞれの生の相貌を切り取っただけだから結末なんてもんじゃない)を書いてもそれで鑑賞に影響のあるような作品ではないから先に書くと、映画内に登場する19歳の学生であるマクシミリアン・Bはいきなり銀行で銃を乱射、そこにいた人のうち3名が死亡、この直後に自殺を図る(これ、1993年12月23日に起こった実話だそうです)。

本作は『71フラグメンツ』という題名の通り、互いに何の関係もないそれぞれの人々の生活の断片をまるで任意に切り取ったかのような構成を持つ(数えてないけど実際71あるんだろうね)。ハンガリーから隠れてトラックの荷台に乗り込み密入国する男の子、どこかの武器庫から大量の拳銃を盗み出す青年、どことなく倦怠期のような夫婦(夫は銀行に現金を運ぶ仕事をしているが、この夫婦には子供が生まれたばかりのようだ。妻は子育てに疲弊している)、年金の支給を銀行に受けに行く老人、窓口でその年金を渡す女性(実は先の老人とこの女性は親子である)、子供に恵まれない夫婦、そしてそれゆえ養護施設に養女をもらいに行きそこで出会う内向的で自閉症気味の女の子、他愛ないゲームで仲間に賭けをふっかけてばかりいる男学生たち(この中にマクシミリアンがいる)。その合間にはテレビのニュース画像がインサートされる。サラエボ紛争、IRAのテロ、マイケル・ジャクソンの児童虐待…。これらは実際のニュース映像だろう。全てが並列的にのっぺりと映し出されてほとんど無感動である(もちろん無感動が狙いである)。

で、しばらくは上記人物の日常のありさまがほとんどブツ切りみたいにちぎっては投げられるように黒味を挟んで提示され、ここでもまたその日常に潜む感情が暴発しかねないような危険な瞬間もまた画面に定着させられていて、いかにも不穏と言うしかない。中でも銀行に現金を運ぶ仕事をしている男とその妻の食事シーン、気違いのように同じ卓球の練習動作を反復するシーンが異様な迫力でたじろぐ。

最後。先の人々が件の銀行に偶然居合わせる中冒頭に書いたような所業をマクシミリアン・Bが行うが、その少し前には公衆電話で母親と何気ない普通の会話を行っていて全くそんな気配はないし、なるほど、この後ガソリンスタンドで給油した際に現金の持ち合わせがなくなかなか支払うことができなくてにわかに苛ついた風情を見せるも、だからといってその直後にガソリンスタンドの向かいの銀行に押し入っていきなり銃を乱射するなんぞ余りに突飛で理解を超えた行いだろう。恐らくは銀行に現金を運ぶ仕事をしている男が(なぜ恐らく、なのかは顔が全く映らないからだ)撃たれて床に横たわる様が長々と映されるが、腹からはドス黒い血が静かにかつどんどん流れ出る。この異様な即物性の気味悪い迫力はロベール・ブレッソンの『湖のランスロ』の血にほとんど匹敵すると断言しよう。

こんな作品ゆえ具体的な事象をいくつか羅列したが、じゃあ監督は何を言いたくてこんな異様な作品を撮ったのか。DVDに付属しているボーナストラックでハネケは「人が監督や作品に貼り付けたがるラベルにうんざりしている。私は言葉で表現できることよりもっと複雑な表現をしたい」と述べるが、しかし「テーマはお望みならコミュニケーションの不可能性と言ってもいい」とも語る。言葉にすればどうしたってありがちな文句になってしまうだろうが、しかし作品はこんな平凡な言葉をそれこそ「裏切って」勝手に観客の思考の枠を拡張しにかかる。確か大島渚も言っていたな、「映画のテーマを言葉で言えるんなら映画なんか撮る必要はない」と。
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