これの実写版として正しいのは、スカヨハ版ではなくある意味エクスマキナなのかもしれない
人形(ロボット)と人間の違いとは、人間らしさと分け隔てるものとは何なのか。"実存"の深奥さを映像化した悪夢。
思ったこと:
捨てられた愛玩用ロボットが浮浪化しているとハラウェイ博士が語るシーン
「人間とロボットは違う でもその種の信仰は白が黒でないという意味において人間が機械でないというレベルの認識にすぎない。工業用ロボットはともかく 少なくとも愛玩用のアンドロイドやガイノイドは功利主義や実用主義とは無縁な存在だわ。なぜ彼らは人の形 それも人体の理想形を模して作られる必要があったのか。人間はなぜこうまでして自分の似姿を作りたがるのかしらね。」
つまり工業用ロボットには作られる目的があるが、愛玩用ロボットには主目的がなく、その存在意義は後から何者かによって付け加えられる、そういう意味である意味人間と同じであり、だから功利主義や実用主義とは無縁と語られる。そう考えると、確かに人間は機械ではないという思い込みはあまりにもチープで、博士の言うように「白が黒じゃないから」レベルの主張に過ぎないように感じられる。
「子供は常に人間という規範から外れてきた つまり確立した自我を持ち 自らの意思に従って行動する者を人間と呼ぶならばね。では人間の前段階としてカオスの中に生きる子供とは何者なのか?明らかに中身は人間とは異なるが人間の形はしている。女の子が子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのではなく むしろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない。つまり子育ては人造人間を作るという古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法だった」「人間と機械 生物界と無生物世界を区別しなかったデカルトは 5歳の年に死んだ愛娘にそっくりの人形をフランシーヌと名付けて溺愛した そんな話もあったな」
極論として捉えるなら、自我を持たない子供は人間ではない、ではなぜ人間ではないはずの子供達が、人間古来の夢である人造人間造りを模したままごと遊びをするのか?人造人間を作ると言う夢が、人間には構造的に組み込まれているということだろう。デカルトのエピソードが引用されているのでデカルトに則って考えるなら、疑う余地のない真理まで突き詰めて考えた時…最後に残るのは自我や自意識。これこそが人間を人間たらしめるもの。しかしその幻想はそのあと覆される。
館のシーン
「真に美しい人形があるとすれば それは魂を持たない生身のことだ。崩壊の寸前に踏みとどまって 爪先立ちを続ける死体」
「人間はその姿や動きの優美さに いや 存在においても人形にかなわない。人間の認識能力の不完全さは その現実の不完全さをもたらし そして その種の完全さは意識を持たないか 無限の意識を備えるか つまり 人形あるいは神においてしか実現しない。いや 人形や神に匹敵する存在がもうひとつだけ」「動物か」「シェリーのヒバリは 我々のように自己意識の強い生物が決して感じることのできない 深い無意識の喜びに満ちている。認識の木の実をむさぼった者の末裔にとっては 神になるより困難な話だ」
「死を理解する人間は稀だ」
このシーンの前半では、合理主義、つまり人間が不完全であり、完全の存在である神の存在を認識しているというか概念を、「人形」を絡ませて示している。
シェリーのヒバリの下りは何のことかわからなかったが、どうやらとある詩を引用しながら、ヒバリが魂から鳴いていることを挙げ、その本能的な無垢さを人間にはないものと語っている。つまり意識があるかないかで、人形には意識がない、だから美しいのだと。「死を理解する人間は稀」というのは、死は意識の外にあるということだろうか。
さて、ハラウェイ博士のシーンでは自意識の有無こそ人間と人形(ロボット)を分け隔てることが示されたが、ここでは自意識こそ人間の醜さであると提示される。しかし「イノセンス」では、意識を持たず神同様の美しさを放つはずの人形たちは徹底的に不気味に描かれ、それらはみなグロテスクに破壊されていく。「イノセンス」は、シンギュラリティを控えた我々人間による、ロボットに対する芸術的反逆と言えるのではないだろうか。少なくとも我々はそれほどまでに追い詰められている。2045年の人間がこれを観て何を思うだろう。