SANKOU

わが谷は緑なりきのSANKOUのネタバレレビュー・内容・結末

わが谷は緑なりき(1941年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

ウェールズの炭坑の街で生まれたヒュー少年は、常に正しい行いをする父と母やグリュフィード牧師に見守られながら成長していくが、同時に生きていくことの厳しさや大人の醜い部分を身を持って実感することになる。
白黒映画だが映像から伝わってくる瑞々しさや人物描写がとても美しい。
牧歌的な雰囲気のある炭坑の街だが、この時代の大部分の人たちは貧しい生活をしていたのだと感じさせる。
鉄工所が閉鎖された為に職を失った労働者が炭坑に押し寄せ、それにより今まで働いていた坑夫の賃金が下がってしまう。
労働組合を作って炭坑主に抗議しようというモーガン家の兄弟に対して、父ギルムは仕事で結果を出すべきだと彼らの言うことを聞き入れない。
こうして兄弟たちは家を出て行き、家族はバラバラになってしまうが、当時の一部の富を持った人間が大多数の貧しい労働者たちを搾取するという構図は、労働者が力を合わせて声を上げなければ変わることはなかったのだと思う。
モーガン家の兄弟が働き手として優秀だった為に賃金が高くてクビになってしまうシーンは、労働者をただの道具としてしか見ていない雇用主の考えをよく表していた。
また貧困のせいだけではないが、人間は共同体の中に共通の敵を見つけて攻撃するということで自分を保とうとする生き物だということも思い知らされた。どんな社会にも一定数の心ない言動をする人間はいる。
しかしこの映画に登場する人たちは皆寄ってたかって一人の人間を攻撃しようとする。
貧しい故に自分たちの生活が、心が満たされないから、社会の規律に反した行動を取っていると思われる人間が許せなくなるのだ。
恐ろしいのがそれが事実かどうか確かめることもしないで、噂が広まればそれを無条件に信じてしまうことだ。それはこの時代に限ったことではなく、今の世の中にも当てはまるのだが。
そんな心の弱い人たちも教会には必ず顔を出す。後にグリュフィード牧師が指摘するが、彼らは決して神の教えを受け、神への愛を捧げるために教会へ赴くのではない。どこかで神の罰を恐れているから、心のどこかに疚しさがあるから教会に顔を出すのだ。
ギルムの娘アンハードと両思いでありながら、自分の務めを果たすために彼女との恋を諦めたグリュフィード。彼女が好きでもない炭坑主の息子と結婚して街を出ていく姿を、悲しげに遠くから眺める彼の姿が印象的だ。そうまでして信仰のために身を尽くしたのに、街の人間が彼とアンハードは関係を持っていると心ない噂を流したことにより、彼は教会を、街を出て行かなければならなくなる。
子供のいじめがなくならないのも、それが大人の世界の縮図だからだとも感じた。
ヒューが学校へ通うことになった初日、彼のみすぼらしい姿を見た教師は児童の前で彼を辱しめる。それを見て笑っていた児童の一人が下校時にヒューの筆箱を壊したことで喧嘩が始まるが、一人の少女を除き周りの子供たちはよってたかってヒューを囃し立てる。
傷だらけになって帰って来たヒューは、心配をかけまいと家族には転んだと報告するが、誰の目にも喧嘩をしてやられたのは明らかだ。
やられたらやり返せという考えのギルム。そしてこの事件に憤慨した炭坑の人たちはヒューにボクシングを教える。
ヒューは教えられたボクシングの技を使って、自分の力で自分をいじめた相手を打ちのめす。彼は自分の尊厳を守るために喧嘩に勝ち、それによって皆に仲間として認められる。
それなのに教師はあろうことか「ついに本性を見せたな、炭坑夫の子供め」と一方的にヒューを悪者にし、鞭で痛め付ける。
今度も問題を大きくしたくないヒューは本当のことを言わないが、子供同士の問題は子供同士で決着をつけた、後は大人の問題だと、彼にボクシングを教えたダイとサイフォースは学校に乗り込み教師をノックダウンする。
ヒューの気持ちも尊重したいところだが、これは観ていて気持ちのいい場面だった。
大人の汚い世界を知りながらも、健気に生きていくヒュー少年に救われるのと、これから廃れていく炭坑の産業だが、多くの人間の命が事故によって失われたのだということに心が痛くなった。
ヒューにとっては思い入れのある炭坑の街だが、映画が始まった時と終わった後では、人々の心が大きく変わってしまったことが分かる。
人の心は変わっても、そんなことにはお構いなしのようにいつまでも緑の谷は美しい。ひとつひとつの光景が鮮やかに甦る最後のシーンは感動的だった。
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