Jeffrey

パフューム ある人殺しの物語のJeffreyのレビュー・感想・評価

4.5
「パフューム ある人殺しの物語」

〜最初に一言、匂い若くは臭いを実際に体験しているかのような潜在意識に刺激をさせる技法は素晴らしく、ここまで奇想天外な物語で、主役を匂いにし、胸をつく悪臭から天にも昇るような香りまで、ありとあらゆる匂いが顔を出す映画はこれ以外にないだろう。正しくノートルダム・ド・パリのカジモドのような仕草の醜さが映画前面に取り入れられ、グロテスクの中に美しさがカットバックされる馥郁的傑作である。野性的で意欲的。ずば抜けた独創性に加え、洗練されたストーリーラインに終始虜になる。まさに圧倒的なビジョンである〜

冒頭、18世紀のフランス、パリ。悪臭漂う魚市場で、一人の赤子が産み落とされた。孤児院で育てられる。香りの少女、殺害、調香技術、弟子入り、とある街へ旅に出る。プラム、香水、洞窟、冷浸法、商人。今、カンニバルが始まる時…本作はあのスタンリー・キューブリックが脚色を試みながらも映像化不可能と断念した伝説的な小説の映画化で、リドリー・スコット、手にティム・バートン、ミロシュ・フォアマンらが映画化に興味を示し、候補となったものの、結局は、ドイツの鬼才トム・ティクヴァが監督を務め世界的にヒットした2006年製作の仏、独、西合作の映画である。この度BD再鑑賞したが非常に面白い。大好きな映画である。日本では翌年の2007年に公開され、12指定がなされた作品でもある。147分と長いが、あっという間に感じるほど映像に見入ってしまう。確か本作の映画予告のCMが地上波で流れてクライマックスの全裸で映る数百人のエキストラのシーンが物議となり、差し替えたり、CM自体を拒否するテレビ局も現れて話題となった記憶がある。


本作はスピルバーグ、スコセッシが争いあった禁断のベストセラーを完全映画化したものであり、最初の熱狂は、1985年のドイツで始まったそうだ。ランキング1位を15週連続で獲得したベストセラー小説が誕生したのだ。どんな小説家でも過去にこんな物語を読んだ事はないだろう。そんな挑発的な触れ込みで紹介された、パトリック・ジュースキントの"香水ある人殺しの物語"である。超人的なまでに鋭い臭覚をもって生まれた主人公が、社会の最下層から這い上がって調香師になり、この世に1つしかない香水を作り出そうとする物語。しかしそれは、決して作ってならない香りだった。奇想天外、前代未聞、破天荒の3拍子が整った言葉では言い尽くせない至福の読書体験の噂が国境越えて広がり、45カ国語に翻訳され全世界で1500万部以上の売り上げを記録したものである。

そんな独創的な物語を映画界が放って置くはずはなく、スピルバーグやスコセッシを始めとする名だたる巨匠たちが映画化を熱望したと言う事は誰しもが知っているだろう。激烈な争奪戦が繰り広げられたが、結局は原作者のジュースキントが、頑として映画化を許さなかった。しかし、「薔薇の名前」(86)で知られるドイツの名プロデューサー、ベルトン・アイヒンガーの企画にとうとう彼が同意し完全映画化が実現したのだ。原作者はマスコミ嫌いなのかよくわからないが、ほとんど無視しているため彼の詳しい事は何も語られていないようだ。小説の成り立ちや執筆についてもほとんど知られていない。ただ彼がこの作品を書いたのは36歳で、中編1つと短編少しを出した他は南フランスにヒキコモっていて、顔をほとんど出さないと言う秘密主義的な人物のようだ。でも結局2000年のある日に、彼は映画制作のプロジェクトには一切関わらないと言う条件で映画化オファーを承諾したそうだが、普通逆だと思う。誰にも映画化されたくなければ、自分が乗り込んで脚色したりするものでは無いだろうか…。


昔に竹田恒泰先生の書籍を読んで、フランスで香水が作られた理由の1つに、町中がゴミだらけで臭くて、普通に汚物などをそこら中に垂れ流していたために、匂いをごまかすために香水が作られたと言っていたが、この映画の冒頭もまさしくその悪臭社会を取り上げていた。なんといったって、朝になると人々は便器の中身を通りに捨てたと言うのだから信じられないのだ。清潔を大事にする日本人にとっては驚く話だ。これじゃぁ、川も広場も教会も全てが臭うだろう。となると、主人公の男に臭いがない体臭がなく無臭であると言うのは近代化された人物であると言うことをシンボリックに捉えていると言う皮肉さが隠れているのかもしれない。フランス語で主人公の名前のグルヌイユは蛙と言う意味を持つ。人間はヒキガエルを見ると嫌な目つきで見ると言う習性があるのか、そういった意味とかを重ねているのか、だがしかし、蛙はフランス人の大好物なのだ。確かイギリスはカタツムリ(エスカルゴ)だったような気がする。あれ、イギリスも蛙だっけな?よくわかんなくなってきた(笑)。さて前ふりはその辺にして物語を説明していきたいと思う。




さて、物語はパリの魚市場で産み落とされた、世にも稀なる才能。1738年7月17日、パリのセーヌ川沿岸に並ぶ魚市場は活気と悪臭に満ちていた。大きな腹を抱えた魚屋の女が突然店の奥に倒れこみ、無造作に捨てられた魚の腹端の上に赤ん坊を産み落とす。死産と決めつけて捨て置いた赤ん坊が大声で泣き始出し、女は子殺しで逮捕された。ジャン=バティスト・グルヌイユ、産声で母親を絞首台へ送った赤ん坊はそう名付けられた。人類にふたりといない才能が誕生した事など、人々は知る由もなかった。仲間外れの育児所から、過酷な皮なめしの仕事へ。マダム・ガイヤールの育児所に引き取られたグルヌイユに、友達は1人もできなかった。何キロも先の匂いをかぎ分けられる超人的な臭覚を持つ彼の存在を、子供たちはどこか普通とは違うと鋭く感じとったのだ。マダム・ガイヤールは、13歳になったグルヌイユを皮なめし職人グリマル売り払う。

ただ黙々と働き続けるグルヌイユ。数年後、青年になった彼は、パリの街中へ配達を命じられる。ついに別世界への扉が開いたのだ。赤毛の少女から匂い立つ、運命の香りとの出会い。焼きたてのパン、生牡蠣、ワイン、白粉、口紅、そして香水。グルヌイユは豊かな富の香りを貪欲に味わう。その時、彼の心臓が、初めて出会った芳ばしい香りに激しく鼓動する。夢中で匂いをたどったその先には、プラムを売り歩く赤毛の少女がたたずんでいた。彼女の香りに包まれて、初めて幸福とは何かを知るグルヌイユ。しかし彼は、怯えた少女の悲鳴を塞ごうとして、誤って死に至らしめてしまう。消えゆく命とともに、彼女の香りも瞬く間にかき消えてしまっうのだった。


天国の香りを創るための第一歩、香水店への弟子入り。絶望とともにグルヌイユは悟った。これまでどんなに辛くても生きることに執着したのは、少女の香りを再現した天国の香水を作り出す使命のためなのだと。彼はサンジュ橋の上に店を構えるて今は落ち目の調香師ジュゼッペ・バルディーニに、弟子にしてくれと頼み込む。計量カップも使わず、己の鼻の記憶だけで、バルディーニが盗もうとしてできなかった流行の香水を作ってみせるグルヌイユの才能に、バルディーニは呆然とするのだった。自分には匂いがない、初めて知った恐怖と悲しみ。バルディーニの店はグルヌイユが次々と生み出す香水のおかげで大繁盛、代わりに彼は香りを与える蒸留法を教わる。しかし、蒸留では生き物の匂いは取り出せないと知った彼は、高度な技術を持つ職人の街グラースへと旅立つ。


山で野宿するグルヌイユは、石の匂いしかしない洞窟で、初めて自分に体臭がないことに気づく。自分は誰の記憶にも残らない無の存在なのだと知り、グルヌイユは嘆き悲しむのだった。そして、この世に2つとない香水作りが始まった。一晩でグルヌイユは立ち直った。自分は特別な人間だと世に知らしめると決意したのだ。グラースの入り口で、運命は再びグルヌイユに微笑む。あの香りに再会したのだ。香りの主は、裕福な商人リシの娘、豊かな赤毛の美少女ローラだった。脂に香りを移す冷浸法を取得した彼は、この世に唯一の香水作りに着手する。その日からグラースの街は恐怖に包まれた。若く美しい娘が次々と殺されたのだ。しかも、被害者を全て髪を刈られて全裸死体で発見されると言う奇妙な共通点がある。



妻亡き後、命より大切なローラを守るため、リシは街を出る。ローラの香りはグルヌイユの究極の香水作りに欠かせないもの。果たしてグルヌイユの香水は完成するのか…とがっつり説明するとこんな感じで、天才調香師グルヌイユが恋憧れ人生をかけて作ろうとしたパフューム(香水)その原材料は何なのかを問い詰める作品である。本作はハリウッド屈指の演技派が勢ぞろいで、非常に豪華である。アカデミー賞に2度輝くハリウッドが誇る名優ダスティン・ホフマンを始めとし、主人公のグルヌイユには、ホフマンが10万人に1人の才能と絶賛されたベン・ウィショーが務めている。この作品から日本でも彼に対してのファンが多く増えた事は間違いないだろう。後の007シリーズでもファンを獲得している事は言うまでもない。彼が追い求めるローラには、ロンドン生まれの新人レイチェル・ハード=ウッドが15歳のミューズの誕生をこの作品で知らしめていた。



そしてなんといっても、英国の名優アラン・リックマンが商人役で出ているのだ。ハリーポッターシリーズのスネイプ役で知られる個性派俳優が亡くなってから数年、あのスネイプ先生が亡くなったとTwitter上でトレンド入りしたら誰しもがアラン・リックマンと言う名前を知らなくても、ハリーポッターのあの先生が死んだとかなりショックを受けていたことを思い出す。この作品の画期的なところは、見る者の五感を研ぎすます、圧倒的クオリティであることだ。そもそも本作の監督ティクヴァの90年代の傑作「ラン・ローラ・ラン」は私の大好きなドイツ映画の1つだ。変わらずのエッチの利いたアーティスティックなセンス、エンターテイメント大作を作り上げる力量は半端がない。それにありとあらゆるフレームに映り込む官能的な描写を作り出した、ドイツ最高のカメラマンのフランク・グリーべも絶賛に値する。彼がとらえたあらゆる要素は圧倒的であった。


そして忘れられないのが、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が初めて映画音楽を演奏したことだろう。常に自作の音楽も手がける監督が作曲した曲をサー・サイモン・ラトルの指揮のもと、心を揺さぶる華麗な演奏で聞かせてくれている。この映画のクライマックスのパフュームの力によって、キリスト的な主人公の立ち代わりがなんとも皮肉で面白い。馬車がやってきてそこから降りてくるグルヌイユは、処刑の場が愛の場に一瞬にして移り変わる香水の数滴がなんとも鮮やかに憎悪を持っていた人々を肌けさせ、愛し合わせた。あの場面のファンタジーはすごい印象的だ。といってもその1つ前の、牢屋に捕まっているはずの彼が、さらにその前の、宙づりにされ水責めに遭っているのに、あの香水をずっと肌身離さず持てるはずもないのに、最終的に彼が持っていたのは突っ込みどころの場面だが、あえてそれは強く言わないでおこう。



いゃ〜、冒頭からかなり魅力的である。この映画CGで匂いを描いていないため非常に良かった。普通視覚的なアイディアで匂いをCGで具現化したりするが、それは子供向けのファンタジー映画になってしまうことが度々あるため、言葉の表現から匂いが伝わってくるような大人向けの映画にしているので、非常に魅力的である。相変わらずこの監督は主観性に徹底してこだわっていることがわかる。ちなみに加齢臭の正体はノネナールと言うもので40代を境に増加する。動植物のエッセンスをうまく調合して女性の体臭を加えれば、究極の香水とも言うべき素晴らしい香りができると言うことをこの映画は教えてくれた。自然の花の香りや柑橘系の香りにもあるように人間の香りは特別に強い力を持っているんだなと思った。



そしてこの映画は驚くほどクローズアップとカット割りの多さがある。特に匂いを嗅ぐシーンなどは指の先端のショットなどがアップされ、また冒頭の子供が産み落とされる瞬間をあらゆるグロテスクな描写(魚のはらわた、蛆虫、ゲロを吐く男、血だらけの生魚、生まれたてのへその緒の赤ちゃんなど)とカットバックさせるなど非常に画期的である。そしてナレーション(ジョン・ハートによる)とともに展開される物語は非常にわかりやすく、子供でも楽しめる映画だろう(グロテスクだからその点は色々と難があるが)。にしても子供時代のグルヌイユを演じた子役も美しかったが、青年時期になった彼を演じたベン・ウィショーは独特なビジュアルをしていてとても良い。当時彼は25歳位だったと思うが、この時から同性愛を公言していたのだろうか、今は40歳になってるがその幼い童顔は変わっていない。



あの色々なものから臭いを抽出しようとするシーンで、絶望に駆られて気絶する場面とかのウィショーの演技は迫力がある。特にカット割が多く挟まれる無残にも殺された少女たちの全裸死体が映される場面は非常に良かった。この映画は非常に乳首を美しく妖艶に映し出し、裸体の美を抉り出している。また、ネクロフィリア(死体愛)を彷仏とさせるようなシーンがいくつもある…といっても主人公の男には死体などは興味なく死体(女体)から取得できる臭いの成分が必要でありコレクションの1部なのだ。それにしても最後のいけにえの少女が街を出て行ってしまい、北に行ったのか西へ行ったのか確認する時、手下は北へ行ったと言うが、少女の匂いが西から漂ってくるの感じ取り、西へ行くのだから、かなりのストーキングツールである。こんなのが実際にあったら少女たちは逃れる術は無いだろう。しかも出てくる女性は処女と言うのもまた面白みがある。どこかしら閉鎖的な街であったからなんとなくそう感じるが…。


ところで1番最初の犠牲者である(この街に来る前のパリでの出来事)赤髪の女性が1番美しく感じた。それはグルヌイユにとっては失敗作であったが、後にガラス製巨大円筒形抽出器に全裸で少女を沈めて見せたところ圧倒的なストーキングさとキモさを感じた。どこかしらリンチ作品を思い出してしまう。基本的に少女は次から次えと床に寝そべり、無防備な体に動物の油を塗られてしまうのだが、唯一このガラスに入った少女だけ縦の死体として画面に現れるのだ。残りは全て横の死体として画面に出てくる。それからどこかしら完璧主義者っぽいグルヌイユが、1番最初に選んだ娼婦の女主人を殺害する場面は、自分が作ろうとしている究極の香水に娼婦の女の匂いが必要だったのかというのが疑問であった。実際彼は、怯えると嫌な匂いがすると言っていたし、後に女性差別主義者のような振る舞いをして、彼女の匂いを捨てているし、究極の香水を求めて徐々に美少女連続殺人犯へと変わっていく様子を見ると、やはり娼婦の匂いではダメだったと言うことがわかり、どこかしら腑抜けで幼く弱々しいグルヌイユでも、差別的な思考回路があるんだなと少しばかり笑ってしまった。



しかしながら後に、犬が臭いの一滴に反応することで実験成功となる場面で、彼がこの街に来て初めて笑顔を見せた瞬間である。原作では犬が犠牲になっていたようだが、映画では巧みな変更を見せ、この犬に犯罪を暴く役を与えていた。これ以上言うとネタバレになるため話せないが。そもそもこの主人公のグルヌイユは初恋をしている。それは下層労働少女の赤毛の少女である。所々にフラッシュバックで彼女が現れるのだが、結局富豪(セレブレーション)の赤毛の処女よりも最初に出会った労働階級の少女のほうがいい香りがすると言うのだろうか、と言う面白みも発見できる。そもそも彼がなぜ赤毛フェチなのかと言うのを誰か教えて欲しい。もっとブロンドやブルネットなどいろいろな髪色あるのに、なぜ彼は赤毛だけを狙うのだろうか。確かに歴史をたどってみれば、古代社会では生贄として捧げられるのは赤毛だったのはわかるが…果たして。


そういえば話は変わるから、中国3大美人の1人、香妃は身体から"サソウ"と言う花のような芳香がしたといわれている。中国西域ウイグル族の王妃で、その芳香ゆえに夫の王を殺した清の乾隆帝(1711年から99年)に後宮に迎えられるが、自刃。悲劇的な最期を遂げた人物もいたな。ウィショーは自宅で猫を飼っているようで、動物の中にはとてつもなく繊細な部分が潜んでいて、周囲の微妙な変化にも敏感に反応するため、猫を観察することで、動物的な見方ができるようになったと言っているので、動物に近いあの仕草とかは自分が飼っている猫からヒントを得たと思われる。そもそも精神病患者たちをとらえたドキュメンタリー映画やデビット・リンチの「エレファント・マン」なども見ていたそうで、オーディションの時に実験的なことを監督といろいろしていてエモーショナルな役だなと思ったそうだ。


レイチェル・ハード=ウッド演じる赤毛のローラは、当時まだ15歳だったらしく、映画を見る限りもうちょっと大人びて見える。彼女は、日本の映画の「バトル・ロワイアル」がすごく好きで、何よりもラブコメよりもホラー映画が大好きと言うことをオーディションしたときに監督と話をして、監督自身もホラー映画の大ファンであり、話が盛り上がったとインタビューで答えていた。さて、この映画の裏話をもう少し話していきたいと思う。この映画はフランスを舞台にしているものの、ロケ地はスペインである。例えば魚市場のパリの街並みや路地、グラースの邸宅や大聖堂などはバルセロナの旧市街ゴシック地区に建築されたらしい。ヨーロッパ各国に各シーンのセットが再現されたのだからまさにロードムービーのロケ地現場だっただろうなと思う。あの18世紀ヨーロッパにおける最も不潔な大都市の最も汚い場所を再現する作業はどんな気持ちだったのか知りたいほどだ。


どうやら60人の若いヘルパーたちでゴミ班が作られ、彼らはバケツや馬を使って町中に様々な種類の汚物をばらまき、1日の撮影が終わると、それら全てをきれいに跡も残さず片付けたとのことだ。2.5トンの魚と1トンの肉がバルセロナの広場に撒かれたため、実際に悪臭が数キロ四方にわたって漂っていたそうだ。そしてクライマックスの誰も見たことのないセンセーショナルなラストシーンは、バルセロナを拠点とするヨーロッパで最も有名な舞踏団の1つラ・フラ・デルス・バウスに依頼して、そのリーダーであるミュラーと彼の助手であるフステルは、50名ほどの中心となるパフォーマーたちを彼らのアンサンブルの中から集め、若い俳優や経験あるエキストラ100名を加え、細かいリハーサルが行われ、彼らの見せる強烈な感情だけでなく、服を脱ぎ、最後には抱き合うと言うシーンを作り上げたそうだ。

最後に余談だが、ニルバーナのアルバムのイン・ユーテロ収録の1曲に、この原作にインスパイアされたものがある。曲名は"匂いのない徒弟"とはグルヌイユであり、彼に親近感を感じていたボーカルのカート・コバーン自身であるとのことだ。そして撮影中のスタジオは汗臭かったと監督がインタビューに答えていた。
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