三四郎

逢いたくて逢いたくての三四郎のレビュー・感想・評価

逢いたくて逢いたくて(1966年製作の映画)
3.5
「園君はな、俺の顔見るとジッと見つめる。そして嬉しそうに笑うよ。…そしてその微笑が、なんか哀しげな表情になる」
渡哲也の科白が実に興味深い。
「俺この仕事終わったら、1ヶ月ほど休み取ろうと思うんだ。アメリカに行くんだ。アメリカは大衆の夢のすべてを満たしてしまっている国だ。アメリカの民衆はだな、俺たちには夢としか思えない全てを手にすることができる。別荘、車、仕立ての良い服、旨い料理、しかしそれでもなお、アメリカの人間にはなぜ欲求不満があるのか。夢を手にしても人間が幸せになるとは限らないのか。そういうことをカメラで記録してみたいんだ。貧困が人間を阻害する話は大勢がやり尽くした。僕はだな、夢や希望が人間を豊かにするのか貧しくするのかそれを探りたい。それにはアメリカが一番良いんだ」
夢は…追いかけている時が一番美しく、自分自身に満足できるものなのだろう。夢が叶い満ち足りてしまった時、人間は走るのをやめてしまう者と、それでも次の目標を立て走り続ける者に分かれるような気がする。しかしどちらが幸福かはわからない。
物質的に豊かであっても幸福でない人は多い。やはり経済面より精神面が大切なのかもしれない。

「大衆にいい加減な夢を与えるスターの存在にメスを入れたいの!スターは大衆の怒りをなし崩しにしてしまう存在なの!」と熱く語る雑誌社の若い女性。
映画の冒頭の方で「読者に喜ばれるのが真実」という科白があったが、すなわち「読者や観客が求めている欲求、夢に描くイメージ/理想像」を提供し、それが「真実」になるということだろう。こうしてスターやアイドル=偶像が創り上げられるのだ。しかし、それでもいいのではなかろうか。スターの仮面を剥ぎ現実の姿を写して何になるのだろうか、誰が喜ぶのであろうか。聖人君子も才色兼備もなかなか存在するものではないのだし…完璧なものや思い描いていた理想像を提供され、それに憧れて夢や希望を持つ方が大衆にとって幸せだと私は思う。現実の暗く辛く醜い部分は普段の生活で目にし避けては通れないのだから、創造されたスター/アイドルの存在、そして夢や希望を持たせることは人生において大事なことであろう。

今で云う陳腐な「アイドル映画」だが、なかなかどうして丁寧に仕上げている。
どんな映画にも一つは心揺さぶる科白やシーンがある。
若い頃の渡哲也の演技…ぎこちなくセリフも棒読みで、意外に下手だったことに驚いた。
園まりの好きな作家はサルトル、ボーヴォワール…ではなくサガンとヘッセ。たしかにその方がイメージに合う。しかし、なぜこの流れでヘルマン・ヘッセ?全てフランス文学にした方が良かったのでは?
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