『ゴーストワールド』に向けて。
決してキム・ベイジンガーとミッキー・ロークをみるためとか、ドラマが目当てじゃないですよ。二人とも美しいしかっこいいが、決して…。
以下、ネタバレ含みます。
さて、物語から生命の躍動感と官能美が主題にみえる。確かに物語の終盤にエリザベス(キム・ベイジンガー)が個展を開催するために関わっている画家と以下の会話をする。
エリザベス「(あなたの絵は:筆者補記)なんというか一瞬の生命感をとらえている」
画家 「見慣れたものが知らないものに見える。その一瞬だ」
本作もまた「一瞬の生命感」が見事に描かれている。印象的なのはクロース・アップのショット。対象を拡大させて観客に意識させるクロース・アップで捉えた食べ物とそれを食べる姿は、生命感に満ち溢れているし、官能さも帯びている。なおさらジョン(ミッキー・ローク)とエリザベスの情事は尚更だ。このように食べ物でみられる日常生活とジョンとエリザベスの関係は私たちにとって「見慣れたもの」だけど、イメージとして現前することで「知らないものに見える」。
ただ本作の一番の主題は「死」だと思っている。官能さに私たちは一瞬目が眩むが、その一瞬が過ぎたら終わり≒死が必ずやってくる。飛び跳ね生命を躍動している魚が、釣られ、料理になって身を開くように。
エリザベスも気づいたのだろう。ジョンとのエロティックなゲームは、興奮させ生きている実感を与える。しかしのめり込んだら、家庭に閉じ込められて暴力を受けたり、隷従化を受けたり、犯罪へと傾倒する。ハプニングバーで視姦されることを歓びにしてしまうかもしれない。その時、もはや官能さにジョンは必要もなく、誰でもない名無しと空虚な情事に耽るしかない。生きているのに死んでいる。だからエリザベスが、ジョンと別れて「引き返すこと」は悲劇であるが、正しい判断なのだ。
そう考えるとどうにもアートギャラリーでの社交には死の雰囲気がつきまとっている。皆が派手な衣装を着て、酒を飲み、大いに笑って話している。とても楽しそうで幸せだ。しかし中身がない。空虚だ。皆が生きているのに死んでいる。エリザベスもこのことに気づいてしまったのだろう。そして同じく既に気づいていて社交の場にいるーけれどのめり込んでいないー画家と目が合ってしまう。
この死の雰囲気は80年代のアメリカの情勢でもあるんだと思う。経済的に豊かで、皆がアートギャラリーでの社交のように戯れている。一瞬の生命が煌めくが、すぐに死んで空虚が渦めく雰囲気。
画家がエリザベスとの会話で別のことも口にする。
「覚えているのは、腹がへったら何か食う事だ。疲れた時は眠ればいい」
「足るを知る」という言葉がこれほど当てはまることはないだろう。そして私たちは官能的な生活をよく生きていくために、別の仕方でクロース・アップすることが重要ではないだろうか。
蛇足
タイトルはフェリーニの『8 1/2』のモロパクリ…いやオマージュやん。ただ『8 1/2』はハーレムを描きつつフェリーニの実存的な問題を切実に扱っているんですよね。
『ゴーストワールド』は死の世界から生を見つめ直す物語と予想。