スローターハウス154

愛、アムールのスローターハウス154のレビュー・感想・評価

愛、アムール(2012年製作の映画)
4.8
2022/3/6

この映画が公開された当時からこの映画の存在は知っていたが、「介護」という当時10代だった僕の家庭からあまりにも近すぎる題材で、きっと名作だろうとは解っていながらもどうにも観る気になれなかった。
僕が物心ついた頃から経験させられていた介護は、体験談としていまだに美化できる思い出ではない。介護という体験を肯定的に捉えるような情報に触れるたび、それらにどこか抵抗感を感じてしまう。それは、あまりにも未熟な子供だった自分の行いを責められる気持ちにさせられるからだろう。当時の僕は、痴呆老人2人と1人の重度障害者の要介護者3人の家族に対し、両親が期待するようにいたわりの心を育むどころか、彼らに日々明確な殺意を募らせていた。バカだのクソだのはやく死ねだのと暴言を浴びせ、夜寝る前に神に願い、朝起きると彼らがまだ健在でいることに絶望する。我慢できず彼らに暴力を振るってしまったこともある。その時カッとなった衝動を今でも思い出せるし、その度に「これが自分の中にある暴力性なんだろうな」と意識することになる。
この映画を観たことと僕のそのような家庭環境(きっとみんな言わないだけで大なり小なり経験しているんだろうけど)を加味して介護という問題に対する思いをここにまとめるのは非常に難しい。ただ、在宅介護に言えることは、もちろん異論は認めるけども、相手に対する無償の愛がなければ、介護という献身など決して善行でも世間様好みの美談に仕立てることもできるものではないだろうということだ。(繰り返すが、これは個人の体験から来るもので一般化できる意見ではないと言っておく。)

こう言うのは自分が暴力を振るったことを肯定するかのように聞こえるかもしれない。しかし僕は当時の僕の家庭にいた3人の要介護者を愛することができなかった。もしハートフルな思い出を彼らと育む機会があったなら、もう少し彼らに献身することができただろうし、あるいは将来の夢として介護職をあげていたかもしれない。
だからこそ、アンヌを聞き分けの悪い肉塊のように扱う看護師を解雇したジョルジュの「将来君が同じ扱いを受けることを祈っている。患者は抵抗する術がない」という言葉は刺さった。愛というのは記憶が作りあげる虚構だ。しかし愛の思い出というのは、献身し続ける場で持久力を発揮するものだと思う。相手と育んできた思い出がなければ、意思疎通もままならない肉塊と化した相手へ献身し続けるのは誰でもできることではない。そうした愛の記憶の代わりに十分な賃金を払われていても、思いがけず介護される身となった人々へのリスペクト、そういうじゅうぶんな想像力を持てなければ、赤の他人が赤の他人に介護をし続けるのは難しいことだ、と僕は思う。

終盤のジョルジュが取った行動は、僕にとっては選択肢のひとつとしてじゅうぶん納得のいく行動だった。もちろん状況にもよるだろうけど、自分だったら子供時代の経験があるぶん、早い段階で状況に見切りをつけてしまうかもしれない。その相手を愛しているほど、その選択を最善のものとしてしまう気がする。僕は本当に、「世間が理想とする介護」に向いていない人間だという気がしてくる。
自分の話をしすぎた。自己弁護的だとは思う。しかしハネケの威を借りて、この場を借りて吐き出したくなりました。