愛、アムールの作品情報・感想・評価

「愛、アムール」に投稿された感想・評価

あまね

あまねの感想・評価

3.9
長回しが綺麗
愛とかを突き詰めたらこの夫婦みたいになるんだと思う。
老老介護がテーマかと思ったら究極の愛がテーマでした
ミヒャエル・ハネケが好きだと再確認した
ジョウ

ジョウの感想・評価

4.4
大切な人の苦しみのどう向き合うのか。
正解のない問いがテーマの作品です。
やっぱりハネケ監督の独特のカットや演出が凄い好みなんです。
特に冒頭の劇場のシーン。
客席側を長回しで撮って、伴奏が始まってもカメラを動かさないカットも変えない。
結局アレクサンドルが出てくるのは中盤以降でした。
その発想が凄いんです。
MariaElena

MariaElenaの感想・評価

3.0
ハネケ作品初心者やから、あ!やっぱりこの終わり方!ってお決まりのエンドロールにテンション上がってた👈
ハネケ作品には絶望感を求めてるけど、これはそんなに鬱々してなかった。
いや、介護の闇は観た。
けど、祖母がこの奥さんよりも断然に深刻な状況やから、悲しいかな慣れているというか。
祖母を介護してた祖父って凄かったんやなぁってしみじみ。
皆んなのいう二人の愛の形には全然気づけんかったからまた月日が経ってから見直すと思う。
adeam

adeamの感想・評価

4.0
オーストリアの鬼才ミヒャエル・ハネケに二作連続のパルムドールをもたらした傑作ドラマ。
シンプルなタイトルの通り、老老介護の状況下で紡がれる一組の老夫婦の愛の形を描いた物語です。
人間の命、そして生きること死ぬことの意味を探るテーマ設定は次作「ハッピーエンド」はもちろん、デビュー作「セブンス・コンチネント」にも通じています。
静的なカメラが長回しで映し出すのは、当たり前のように寝たきりの妻の世話をして、歌を聴かせ、傍らで語りかける夫の姿です。
前半での妻の悲観的な発言が効果的で、淡々とした日常の中に時折訪れる微かな感情の発露の度に、いつ夫の心が折れてしまうのかと緊張感が持続します。
枕を手に取る夫の手が一度わずかにためらう動きに、この上ない愛情を感じました。
孤独の淵で絶望し、追い詰められていくのではなく、家族や親切な隣人、かわいい教え子など人との関わりがあった中での結末だからこそ、それがはたから見れば歪んだ愛であったとしても、その決断には否定しようのない説得力が与えられていたと思います。
もう10年以上前の報道になるかと思うのですが、この映画を振り返るたびに日本で老夫婦が焼却炉に入り自死したニュースを抱き合わせるように僕は思い出すことになります。妻の介護に限界を感じた夫が残した遺書の書き出しは「今日僕たちは旅立とうと思う」でした。

どれほどの苦しみだったかは分からない(としか言ってはいけないと思うことは最低限の節度だろうと思います)のですが、青く澄んだ空を思わせる妻へのその思いに、30代後半に入った僕はひそやかに憧れもしました。

だから(とはいえ)ミヒャエル・ハネケによるこの作品に流れる本質は、リアリズムではなくむしろロマンティシズムのように思います。こんなふうに添い遂げることもまた、夫婦のあり方として1つの美しい完成を見るような思いがします。周囲から見て幸福そうに見えることと、内的に何かを完成させることとは、真逆の道をいくことは間違いなくあるはずです。

映画の中で演奏されるシューベルトは、白昼夢のような生の中に深淵を覗き込むような死の予感を響かせた作曲家(作品に少し顔を出すアレクサンドル・タローは、たいへん知的なアプローチで演奏活動しているフランス人ピアニスト)。即興曲作品90-3は21年前の結婚式で妻に弾いて贈ったこともあり、僕にとっては思い入れの深い曲です。

そしてつい先日まで、僕は日本で報道された夫婦や本作の夫婦を理想のように思っていたところがあります。しかしながら45歳を過ぎてからは、僕は妻への信頼を失いつつあります。浮ついた言葉で言い表すなら、21年間に渡って僕は彼女のことを変わることなく(もしくは変わりながら)愛し続けてきましたし、これからもそうするだろうと思います。けれど愛することと信じることはまた少し異なります。

たぶん僕は、持続させてきた愛の強さと深さによって、彼女の人としての器を追い越してしまった。この感覚は分からない人には決して分からないでしょうし、分からない人と僕が何かを分かち合うことは本質的に不可能だろうとさえ思います。僕はその孤独に耐えていく準備をしなければならない。

ショートショートは、まだ妻のことを信じられていたときに書いたものです。1つのメルクマール(指標)として記しておこうと思います。


*青空*

80歳の夫は80歳の妻の目を見て綺麗だと思った。2人は同じ保育園に通い、同じ小学校にあがり、同じ中学校に通い、同じ高校を卒業した。そして当然のように結婚した。仲が良すぎたのかもしれない。2人に子供はできなかった。夫からも妻からも言い出すことはなかったものの、2人の間に別のものが存在することは不自然なことのように思えた。

妻のほうは2年前から認知症になっていた。やがて夫を見つめる目はやわらかくも疑い深い他人に向けるものになっていった。その目を夫は美しいと思った。

すでに70年以上前の出来事だとは夫にはどうしても思えない。保育園で親の迎えを待つなか、隣に座った少女の伏せたまつ毛の長さに驚いた瞬間。そのとき開かれた目のやわらかさと疑い深さが今も夫の前にある。

夫はずっと1人で面倒を見るつもりだった。しかし半年前に体に異変を感じて病院へ行くと膵臓癌と診断された。やむなく介護士の手を借りることになった。もともと多くはなかった2人のための老後資金は、医療費や介護費などに消えていった。しかし退職金には手をつけず定年後にもシルバー人材登録して生活したため、夫の寿命さえ持てばあと3年分の蓄えはあった。

そのことをつらいことだとは夫は思わなかった。むしろ自分たちらしいとさえ感じた。小さな頃に出会い、小さく生き、そして小さく死んでいく。あとは最期を決めるだけだと思った。癌は確実に進行していたものの不思議なくらいに小康状態が続いていた。何かの間違いだったのではないかと思えるほどだった。

3日だけ早く80歳になっていた夫は、妻が同じ80歳になった日に介護士を早めに帰した。妻の着ていた服も下着も脱がせ、隅々まで丁寧に体を拭いた。拭き終わると化粧の仕方を知らなかったことを悔やみながらも、妻が一番美しく見えると思う服に着替えさせた。

そして妻に手紙を書いた。

外は青空が広がっています。はじめて君の目を見たあの日と同じ青空です。君も僕も今日で同じ80歳になりましたね。僕が君を充分に愛せたかどうかは分かりません。けれど共に生まれた僕たちは、今日、共に旅立とうと思います。
Okabe

Okabeの感想・評価

4.4
幸福な日常の、私たちの与り知らぬ所に(空巣の如く)不穏な終末の影は落とされていて、気づいた時には既に遅く、ただそれを受け入れるしかない。誰も立ち入る事の出来ない二人の領域で、手繰り寄せた思い出と苦しみを分かち合い同化する。甘美なロマンスではない。吹き抜ける風と共に時が来て二人を連れていってしまった後には、愛とその死の残り香が胸を衝く。
Mypage

Mypageの感想・評価

3.9
ハネケは「状況」が大好き

トランティニャンの演技が本当に凄い

愛するとは室内に入ってくる一羽の鳩
Foufou

Foufouの感想・評価

4.0

このレビューはネタバレを含みます

もう少し若い時分に観ていたら、老老介護の現実を扱った社会派映画として消費したかもしれない。しかし不惑を越えれば誰しも老いを意識するし、親が存命なら彼らは主人公たちの年齢と大差ない。久しくクリーニングに出していない礼服のことが夜更けにふと気になったりする。

来るべき終焉に向けて、構える契機となる映画である。少なくとも欧米はそのように反応し、こぞってこの映画に賞を与えた。まるでそうすることで何かを封じることができると信じるかのように。あるいは世界のほつれを隠蔽できるとでも信じるかのように。あの受賞の夥しい数こそは、欧米の知識人たちの動揺の表れであり、もしくはやましさの表れだろう。

パリ中心街の高級アパルトマンが舞台。老夫婦は引退したピアノ教師で、国を跨いで活躍する新進気鋭の弟子がいる。娘夫婦は夫の浮気で切った張ったを繰り返しているが、どうにかロンドンで家を構えている。孫たちも少なからず音楽に携わっているらしい。ヨーロッパの典型的なブルジョワ。とまれ、ままならぬ懐事情を人事不詳の母に娘が打ち明ける場面があるから、鴨の足掻きが透けて見える。

冒頭、シャンゼリゼ劇場でピアノリサイタルが始まろうとしている。舞台側に固定されたカメラは客席側に向けられ、わらわらと集まる観客たちを長々と映している。鏡像に向かい合うような居心地の悪さがあって、なるほど、これから私たちは私たち自身の物語を観ることになるわけだ、と知る。いかにもハネケらしい演出。

無理に医者に診せ、手術まで受けさせた結果妻が半身不随になって戻ってきたことへの夫の罪悪感。妻は妻で夫をなじる気持ちもなくはないだろう。だからこそ二度と病院に連れていくなと妻は夫に約束させる。家を離れたくないからとか、夫から離れたくないから、という感傷的な演出は、そもそもの始まりから奪われている。この点において、老夫婦の甘やかな愛の絆をこの映画に見ようとする者は、最後までお預けを食らわされることになるだろう。やはりハネケの amour は逆説的であり、一筋縄ではいかない。

妻の容態は悪化する一方で、看護師二人体制でなければ回らなくなってきて、二人目を雇うも、これがケン・ローチの映画から連れてきたようなお育ちのよろしくない悪看護師で、妻になかなか凄いことをするし、解雇を言い渡す夫とこの看護師の対決は、DQNとは距離を置こうでは済まされない、暗鬱とさせられるものがある。本邦でも、こちらは距離を置いているつもりが、突然追いかけてきて高速道路で停車させられかねないのだ。

娘が父を非難する。この状態が最善か、と。涙ながらに Parlez sérieusement avec moi ! と詰め寄るが、よし、それなら真剣に話し合おうじゃないか、と父。妻は病院は断固拒絶する。医者も看護師も定期的に手配している。家では私がついている。それでも気に入らないと言うなら、お前が引き取るのか。返されて、カメラが娘を映すことはない。声を拾うこともない。なぜお母さんは最後の最後でわたしを苦しめるの……が娘の本音だろう。罪悪感に発作的に突き動かされながら、それを持て余す現代人のありようが浮き彫りになる。

あの最後の娘の不意の訪れに、夫は動揺して妻の寝室に鍵をかける。父親の異変にこそ娘は動揺し、母親に会わせてほしいと迫る。もしや、と観客は思うわけだが、鍵は開けられて母は寝台に眠っている。ただ、この場面から、来るべきクライマックスが発作的でないことを我々は知らされることになる。

意識の曖昧な妻に向かって、夫は幼少のころの話をする。非常に話のうまい人で、こちらもつい引き込まれてしまう(疎開先に送られる娘に、調子が良ければ「◯」を、悪ければ「×」を書いて毎日送れと父が何枚ものを葉書を託したというエッセイが向田邦子にあったのを思い出す)。老夫婦の間で交わされる話の大半が夫の幼少期のそれというのは、いささか違和感がなくもないが、どうか。ただ、ここにも作話の方向づけはあるはずで、夫にとっての妻が、今や母親と等価となっている印として私は観た。あるいは死にゆく妻に自身の幼少期を託すとは、これ以上ない同化を意味するのかもしれない。

いい日なら便箋の片隅に花の印を、悪い日なら星の印を。振り返れば花の印の多い人生だったかもしれない。しかし老介護の現実は、人生の花模様をすべて星模様に変えかねない危うさを孕んでいる。だから鳩のおとないは、聖霊のおとないと読むのが一つの筋だろう。夫は茫然自失となりながら妻に導かれて部屋を出る。実年齢においても、エマニュエル・リヴァはジャン=ルイ・トランティニャンより三つほど年長。

ドアの隙間をガムテープで目貼りしたのはなぜだろう。自分のためというより、妻のためだったろう。妻があそこまでプライドが高くなければ、事態はだいぶ変わっていたかもしれない。しかし、気難しくなるというのは、何もその人自身の性格からとも限らない。老いは、病いは、人の本質を狂わせかねないのだから。しかし狂ったら狂ったで、私たちはそれも当人としていたわっていかなければならないのである。だからあの目貼りは、妻への最後の気遣いとしてあるのではないか。

誰もいないアパルトマンの部屋に、光が満ちている。娘が立ち寄って、鍵を開け、室内を見渡しながら、そっと居間に腰を下ろす。

イザベル・ユペールとは、ただその存在をもって、あらゆる映画に終止符を打つことのできる、稀有な女優ではないか。
ShotaOkubo

ShotaOkuboの感想・評価

4.0
長年に渡って、連れ添った老夫婦が老いに翻弄されていく姿を描く。

彼らの間にだけ流れる有りのままの時間を長回しのワンカットが映し出す。

水の音に始まり水の音に終わる、老夫婦の漂流する愛が行き着く先とは。
TSUTAYAで観ました。
一般常識とは別次元の領域です。
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