あなぐらむ

パシフィック・リムのあなぐらむのレビュー・感想・評価

パシフィック・リム(2013年製作の映画)
3.5
とてもストレートな怪獣映画であり、ロボット燃え(萌えではないのは重要)映画だ。
それ以上でも以下でもない。そこが潔い。
本作を何か評するとすれば、そのビジュアルから何から一切合財を自分の持てるギークな知識を総動員した「ぼくがかんがえたかいじゅうえいが」をスタッフ全員の共通認識として浸透させ、キャストを納得させ、実際に人に見せられる商業映画に仕立て上げてしまったギレルモ・デル・トロのエネルギーと「世界」を作れるセンス、それに尽きるだろう。

本作のパンフレットを開くと、まず最初に環太平洋を舞台にした「カイジュウ」との戦いの歴史年表を見ることができる。ここには海の底からやってきた異性物と人類の戦いの「架空の戦史」が綴られている。これが本作の一番キモの部分だ。
中野貴雄さんがツイッターで早い時期に呟いておられたが、「パシフィック・リム」は「第二話」(以降)から始まる映画なのだ。アバンタイトルの、アラスカに傷だらけのジプシー・デンジャーがたどり着くまでが「第一話」のあらすじとなる。

本来、映画はその作品の中で起承転結、お話が始まって終わるのが常道であるが、中には例外がある。一番分かりやすいのが「スター・ウォーズ」だろうか。あの一作目は公開当時から9部作の4つ目の話、として登場した。観客はあの映画一本を楽しみながら、同時に銀河で繰り広げられる帝国とレジスタンスの戦いの歴史を夢想した筈だ。ここでも架空の戦史がファンを虜にし、未だに幾つもの番外編や別メディアでの展開を続けながらひとつの作品「世界」を構築し続けている。

今や近所の奥様でも知っている「世界観」という言葉。物語が「世界」を持つ時、それは人を強く惹きつける磁場となる。
「世界」の中では、ファンが空想を遊ばせることができる。劇場で観た物語の前、後、同時進行など、あらゆるヴァリエーションが起こりうる。
本作のベースに「クトゥルフ神話」があるのは指摘されているところだが、これもラブクラフトが綴った短編たちをファンが神話体系として受け入れ、その神話「世界」に補強されてここでもヴァリアント(異本)が各メディアで登場し愛されている。「世界」を持つことでファンはそこにコミットしていく事が可能となる。それが熱狂的ファンを獲得し始めているひとつの要因ではないか、と思う。

どうしてアメコミの映画は(例外もあるが)ヒットし、受け入れられるのか考えた時、既にアメコミ(マーベルやらDC)はその時点で強固な「世界(神話)」を持っており、連綿と受け継がれて描かれ続けてきた素地がある、ということがあると思う。
これは俗にいう「マーベル・ユニバース」やら「DCユニバース」という体系の事だ。
何度もリセットされたり、世界改変を起こしたりしながら今も増殖する「世界」があるからこそ「あぁ、こういうバットマンもありっちゃありだね」というファン側のゆとりも生まれてくる(もっともノーランはそんなバットマンでさえ、登場するまでに1時間を要して「ゴッサム市」と「ウェイン家」について「前史」を作る。だからこそあの映画は「バットマン・ビギンズ」というタイトルなのだ)。

マーベルはその辺りもっと上手にやっていて、一作ごとにリブートさせながらそこに「世界」の断片を紛れ込ませながら着々と「シネマティック・ユニバース」の準備をして、「アヴェンジャーズ」に繋げて大ヒットを勝ち取ったわけである。

なのでメキシコ人のギークが、日本の怪獣映画やらアニメを吸収して、ハリウッドで新しい「世界(神話)」を作ってくれたことは、日本のファンにとっては誠に光栄なことだし、素直に映画を楽しめばいいんである。レジェンダリーという資本と日本文化への妙な曲解がなければ成立しなかった、物凄いエネルギーの産物だったと思う。

デル・トロ監督は本作の世界観を作る上で一番影響を受けたのは、押井守の「機動警察パトレイバー」シリーズだと語っている。やはり押井か、という感じだが、「パトレイバー」は「レイバーのいる世界とはどういう世界か」という事に正面から取り組み、非常に「現実」に近い側にその作品「世界」を構築して見せた。
劇場版二作の脚本を担当した伊藤和典はその後、金子修介と組んで平成「ガメラ」三部作を作った人である。彼らが「ガメラ」に取り組む際、「巨大な亀が火を噴きながら空を飛ぶ」という、現代にあっては荒唐無稽でしかない設定に真正面から向き合い、「ガメラとは何か」「ギャオスとは何か」「怪獣という存在が現れたら、日本はどういう状態になるのか」を」ひとつひとつ丁寧に、細部に渡って考えていった。それは皆さんが、シン・ゴジラやシン・ウルトラマンで体験したことを25年前にやっていたというお話である。

何にせよ、こういったジャンル映画は、製作者がこれから作るものについて真摯に向き合い、捉え直し、細部まで作りこむことが、特撮やアニメといった「実際にないものを見せる」映画としての力になるのは確かだ。そこまでやれば、自らが作ろうとしているものを「信じること」も可能になる。そうして作り上げた「世界」と「戦史」は、観る者を虜にする筈である。

こういったギーク作品は何が良いかというと、特殊効果、CGIの精度を上げるのに貢献するという事もある。
そして、冒頭にも書いた通り作品のビジョン、ルックを全てのスタッフに共有させるという熱量が必要だという事もある。
それは何かにチャレンジするという事において、安易にビジュアルを作らないという点においては、映画作りの大切な部分である。