まぬままおま

ペトラ・フォン・カントの苦い涙のまぬままおまのレビュー・感想・評価

4.3
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督作品。

パートナーとは、対等になった瞬間に別れるものである。

ファッションデザイナーで「月の寵児」なペトラ・フォン・カント。彼女は仕事では一定の成果を出しており、プライベートは自由奔放だ。夫とは別れており、娘は寄宿学校に入れているから家族的なものとも疎遠で、使用人のマレーネをこき使って生活を謳歌している。そんな生活の中、友人の紹介で若く美しいカーリンと出会う。彼女はカーリンに惹かれ、同棲を始めるが…。

以下、ネタバレ含みます。

ペトラは夫に酷い仕打ちを受けたことをカーリンに語る。仕事の成功を妬まれ、ベットでは乱暴にされ、人として尊重されなかったと。しかし彼女が涙を浮かべ苦悶の表情で語れば語るほどマレーネのことが気にかかる。彼女が夫にされたことと彼女がマレーネにしていることは同じではないかと。自らの行動を省みない/省みられないのは、私たちにもある普遍的な事由のことに思えるが、あまりにも不条理で皮肉だ。

しかもペトラの愛はカーリンにのみ差し向けられる。献身的なマレーネには向けられないのだから残酷だ。もちろんカーリンもペトラのことは好きである。けれどそれは、ペトラがカーリンを自らの手中に収められたり、モデルに起用できること、カーリンにとっては住処や仕事、名声を得られるといった利害関係の範疇であって、そこに純粋な愛は存在しない。その愛はまるで宗教画のように崇高ではあるが、観念的だ。

だから利害関係から逸脱するペトラの一方的な愛情はカーリンに全く見向きもされないし、見返りもない。だったら愛することをやめればいいのに、止められない。どうしよもなく彼女はカーリンを愛してしまっているのだ。振り向いてほしいから、さらに愛情を与える。お金を与える。生活の裕福さを与える。けれどカーリンは、彼女から自由になりたいわけだからさらにそっぽを向く。ペトラとカーリンの不条理な循環構造。

ペトラは観念的で純粋な愛を志向し、不条理な循環構造に陥っているから生活が退廃していく。ベットはなくなる。友人、娘をぞんざいに扱う。マレーネも同様だ。飲酒量は増えて、薬を飲まないと眠れない。実生活は失われ、実在の人物はマネキンや人形という「理想」/身代わりに取って換わる。ペトラも生活も愛も理想的だからこそ「死んでいる」。

ペトラは誕生日パーティーを台無しにして、絶望の淵に立って始めて気づく。カーリンを人として尊重しておらずエゴのように愛していたことに。そしてマレーネの愛に気づく。彼女を背後から支えてくれた良心的な愛に。このことに彼女は気づいたとき、マレーネをパートナーとして対等に愛し、共に生きることを誓うのだ。

しかしペトラは気づくのが遅すぎた。ペトラとマレーネが対等になった瞬間、マレーネは身支度を調えて、彼女の元を去る。これも典型的で普遍的なことのように思える。ぞんざいに扱われた方は、仕打ちを忘れてないし、対等になって自由を得たら離れることなんて決まっている。この当たり前のことを、不意打ちのように描く凄さよ。本作は室内劇で撮影場所は三カ所ぐらいしかないのだけど、会話は秀逸で物語もイメージも素晴らしい。

結論を再度述べれば、私たちは対等なパートナーと思えた瞬間、別れる運命にある。それは必然だ。死別だってある。利害を免れる完全な愛は現実に存在しない。だからこそ別れが来るまで、愛が良心的になるよう努めなければならないだろう。その努力はきっと破綻するけれど、その悲しみを先駆けることだけが本作にできることである。

***
そうはいってもパートナーとは別れたくない。それも私たちに普遍的なことだろう。確かに本作で得られる〈教訓〉は、一定理解できる。本作に不満は全くない。というか単純にいい作品だ。けれど別の未来を思い描くことは可能だと思う。そのためにはアキ・カウリスマキー最近、めっちゃ好きーの作家性がヒントになると思う。
ファスビンダーは対人関係を、利害関係やそこから派生する依存関係に前提して愛を素描する。従って現実でなされる人々の愛は不完全で、理念的な愛が至高な以上、別れが必然なのである。

対してカウリスマキは対人関係がそもそも存在しない。作品に登場する人物は孤独だ。そんな孤独な人たちが運命的に出会って愛を始める。その愛は本作に倣って言えば「互いを人として尊重する愛」だ。使用人の関係でもない。神のように崇める関係でもない。とても現実的で生活の中の愛だが、理念的のようにも思える。だからなのか、カウリスマキ作品の彼らは別れない。別れないのは依存関係に陥って別れられないのが理由でもない。そもそも孤独な人たちで互いを尊重しているから、関係の距離が離れても「待つ」。この「待つ」ことが別れないためのヒントのように思えるのだ。

マレーネのラストシーンの行動心理を非難したいわけでもないし妥当だとは思う。しかし本作だけをみれば、悲劇的な結末のように思えてしまう。けれどペトラは去ったマレーネを待つことができる。もし待つことができるなら「別れずにすむ未来」が待ち受けているように思う。マレーネはペトラのもとを去れる対等なパートナーになりえた。このようにいつでも去れる離脱可能性があるなら、去らなくてもいい判断ができる。そしてこの余裕がカウリスマキのような愛を紡ぐ可能性をもたらすはずである。それはペトラがカーリンを待つ描写とも重複する。彼女らはパートナーではもはやないけれど、カーリンはペトラの誕生日を祝福して電話をかける。それは関係が終わっていない≒別れていないことも意味するのではないだろうか。それならカーリンとの関係も再び始まる余地は残っている。だったら私たちは、ペトラはマレーネの帰りを待てばいいのだと思う。

え?待ちたくない?孤独になりたくない?カウリスマキの作家性を受け入れられない?
確かに別れが必然なファスビンダーと孤独を抱えることが必然なカウリスマキの二者択一は酷かもしれない。では孤独とは何か、アケルマンはどうかなど言いたいが、長くなりそうなので別稿に譲る。